感想 外山恒一 『政治活動入門』

 

外山さん関連で連続してしまうが、新著『政治活動入門』を読んだ。

 一行で感想を要約すると、『政治活動入門』は、「外山恒一がガチで自分のラジカルな活動を世に知らしめようとしてきた‼‼」と感じる本である。以下、章ごとに感想を書いていく。

 

 

 

 

①第一章 「政治活動入門」

 

 第一章「政治活動入門」では、文字通り、外山恒一が政治活動についてどの様な考えを持っているのかということを知ることが出来る。一見、本書のなかでは最も穏健なことを言っている様に見えるが、個人的には最もラジカルであるとさえ感じる章である。

 

 外山はまず、政治活動というと、それらがすぐに選挙活動に関連するものとして帰結してしまうことを批判する。選挙活動は、確かに政治活動の一形態でこそあるが、逆に、それ以上のものでは決してない。

 

 では、外山は、選挙活動に収まらない政治活動をどの様に定義するのか。

 

 曰く、政治活動とは「社会に不当な目を合わされているが故に生じる自身の生きづらさを解消するために、他の個人と問題意識を共有して、協力して、時代状況や社会状況を改変すること」なのである。これだけではいまいち分からないので、細かく解説していこう。

 

 外山はこの、”自身の生きづらさ”という点を非常に大事にしている。自身の生きづらさとは、言い換えれば、”被害者意識”である。被害者意識から政治活動をすることは、一般的に考えればタチが悪いことで、本来であれば、”正義感”から活動をするべきなのではないかと思える。しかし、外山はこんな一般論を完全に否定する。

 

 ”正義感”なるものは所詮他人事であり、自分事として社会を捉えようとする”被害者意識”の方が、意識の強度の点で遥かに勝っており、それこそが、運動の高い強度を実現するのである。

 

 しかし、ここでさらなる疑問がわく。被害者意識なる自分勝手な動機で、他者と問題意識を共有することなどできるのだろうか。

 

 外山は、そんな自己と他者とのギャップを埋めるものが、”勉強”であり、”教養”であると断言する。

 

 生きづらさを抱えているのが自分個人だったとしても、その”自分”は、広い社会に属しているのだから、同型的な生きづらさを抱えている人が数多く居る可能性は高い。そんな生きづらさに、言葉、或いは論理を与えることで、潜在的な仲間が集う場所が生まれるのであって、その為には勉強が不可欠なのである。

 

 外山は、この章で、芸術と学問についても言及している。一般的には、何かと、”政治の介入”が問題に上がるこれら二つの領域であるが、外山は逆に、この二つの領域を、広義の政治活動に包摂してしまおうとする。曰く、学問や芸術の道を追求する人は、大抵の場合、政治活動をする人と同じく、その時代に対する疑念や違和感を抱えている。しかし、それを政治活動によって直接的に解決しようとするのではなく、“あえて”、遠回りして解決しようとしているのが、学問・芸術なのだ。だからこそ、それらには、自分が“あえて”遠回りをしていることを自覚して、その上で、中心に存在する政治に対して、緊張感を持たなければならないとする。

 つまり、外山は、政治活動を“中心”に配置し、それが“周辺”に派生していく形として、学問や芸術を捉えているのだ。こうした、政治中心主義を取る外山は、普通は問題にされるような、政治の介入という概念を、余りにも無邪気に肯定するのである。

 

 これまでの論理は、非常に筋が通っており、又、本文では非常に軟らかい文体で書かれているため、外山恒一らしくない、穏健で、フツーに正しいことを言っている様に勘違いしてしまいそうになる。しかし、文体に騙されてはならない。冷静に考えれば、ここでの外山の主張は、現代のリベラル的な政治活動の概念を真っ逆さまに転倒するものである。

 リベラルは、「選挙で投じる一票が大事で、勉強はせずとも、どんな人でも素朴な正義感から、一緒に声をあげるべき」と考えている。一方の外山は、「選挙は政治活動の特殊な一形態にすぎず、しっかりと勉強をして教養を積み、歪んだ被害者意識を言葉にして共有していくべき」と考えている。両者は見事なまでの対照を成している。

 加えて、芸術や学問の考え方にも違いがある。ノンポリは、「音楽に政治を持ち込むな」と考えて、これに対してリベラル派は「音楽にも政治を持ち込んでいいだろ‼‼」と主張する。

 しかし、外山はこれら二つとは全く異なる観点を出す。それは、「音楽とは政治である」ということだ。持ち込もうとするしないの意志に関わらず、音楽は政治性に取り込まれざるを得ないのだと、暴力的な断定を行ってしまうのである。  或いは、次のようにも表現できるかもしれない。つまり、「政治である筈の音楽に、ノンポリサブカル性を持ち込むな」ということである。いずれにしても、ノンポリ/リベラルが提示する、政治、芸術の二項対立を完全になし崩しにしてしまうのだ。

 第一章は、極めて平易な言葉に優しい文体で書かれてこそいるが、外山の根本のラジカル性が発露している章であった。

 

②第二章 「学生運動入門」

 ここでは、第一章と連続した問題意識の上で、政治活動において、学生、もっと正確に言えば、“若くて知的でヒマな連中”が多く参加することの必要性が語られる。

 外山は一時期、福岡のあるバーで雇われ店長をしていたということであるが、その時、彼の下には、「大学の奴らは政治のことについて全然考えていないんですよ」という大学生が、“たくさん”来るのだそうである。であるならば、シンプルに、そう思っている学生同士が孤立していて、出会っていないだけだという話である。

 外山は、取りあえず、“百人に一人”の学生が、政治的に熱くなることを目標とする。1968年に匹敵する、いつか、電撃的に到来する世界革命の時に十分な力を発揮するために、取りあえず、“百人に一人”が平時は頑張っておくことが大事なのだ。“百人に一人”程度の盛り上がりが平時にあれば十分だし、又、その程度の盛り上がりであれば、現在孤立している学生同士を出会わせることさえできれば、十分に可能だと外山は感じている。

 しかし、何故、“若くて知的でヒマな連中“が必要なのか。これに関しては、自分がその層に該当するというナルシズムも入っているが、大事な観点だと思うが、本題からはそれるので、記述を中断しよう。

 とにかく、外山は学生運動の債権が絶対に必要であり、又、それは現実的な規模で可能だということを説いているのである。

 

 ③第三章 “戦後史”日入門 第四章 学生運動史入門

 この辺りは、“歴史認識”の問題である。非常に面白い章であるが、「外山合宿でやったところだ‼‼」となってしまい、普通に読むのとはどうしても視点がずれてしまう。だから、これら二つの章は省略する。近いうち纏めなおすと思う。

 

 ④第五章 「ファシズム入門」

 外山が掲げる、「ファシズム」が、一体何なのかがここで分かる。

 ここで注意しておかなければならないのは、外山が掲げるファシズムが、一般的にイメージされるような、ナチズムと結びついたものではないということである。本人は、ムッソリーニを大いに参照しているが、だからといってムッソリーニ主義者なのかは怪しい。千坂恭二氏は、次のようなツイートをしている。

 

 

 

 外山自身このツイートをリツイートしている通り、外山が掲げるファシズムは、歴史学的なファシズムというよりかは、ファシズム運動を見て刺激を受けた外山が、独自で編み出した思想と捉えた方が適切かもしれない。(これは非難ではない。外山は学者ではなく革命家なのだから、より魅力的で強度を持った観点を提示することこそが本分なのだ。彼の仕事は歴史の整理ではない)

 そのような前置きをしたうえで、では、外山的「ファシズム」とは何なのであろうか。

 まず、外山は、現時点での社会構想の“全体的なビジョン”の選択肢として、以下の五つを上げる。

 

アメリカニズム

共産主義

ファシズム

アナキズム

ナショナリズム

 

 フェミニズムエコロジー等の個別の課題については、これら五つの大きな観点に包摂される形で表明されていくと外山は言う。

 加えて、この五つの選択肢の内、外山は二つを排除してしまう。まず、アナキズムアナキズムの範疇でとどまっている限りは、政治への強い影響力を持つことはう可能であるとした。次に、ナショナリズムは、他の三つの運動と手を組むならまだしも、独自で勢力を維持するのは難しいだろうとされる。

 では、「ファシズム思想」とは何か。

 ファシズム思想の始祖としてムッソリーニを外山は上げる。ムッソリーニは、元々は限りなくアナキズムに近いマルクス主義陣営の中の極左派として名をあげていた。

 そんな中で、マルクス主義陣営と決定的に決別するのが、第一次世界大戦を巡っての対立であった。ムッソリーニは、レーニン的な論理を突き詰めた、「戦争を内乱に転化するためにまず参戦せよ」という主張を行ったのだ。これによって、ムッソリーニマルクス主義者の陣営から追い出される。

 そんなムッソリーニが、独自路線の「戦闘ファッショ」を結成した時、参加者の大部分は、芸術グループの“未来派”であった。未来派は、物質を始めとした近代的な価値観を徹底的に肯定して、反対に、調和を始めとした古代的な価値観を徹底的に否定した。ムッソリーニの運動は、アナキストと、未来派という、政治、芸術の異端派の運動として始まったのであった。

 そもそも、「ファシズム」というのは不思議な名称である。イタリア語で「ファッショ」というのは、束のことであり、言い換えれば、「党」のことである。普通、「○○党が掲げ○○主義」と言う様に、党の前に来る内容に、「主義」をくっつけるのであるが、ファシズムに関してはなぜか、党の方に主義をくっつけているのだ。無理矢理に和訳すれば、党主義者ということになるが、これは一体どういうことか。

  これには、ファシズムという思想の根本が隠されている。政治的、或いは芸術的な異端派が、取りあえず団結して、一つの運動を形成することそれ自体が非常に重要なことなのであって、実際に何をやるのかは二の次という無内容性にこそ、ファシズム思想の根本があるのだと外山は説く。

 

 では、そんな無内容なファシズムを、外山は何故、今更掲げるのであろうか。それは、ファシズムが、その無内容な団結でもって、何らかの普遍的正義で世界が覆われていくことに、実存主義的感覚を持って対抗しようとするからである。

 例えば、資本主義と共産主義という対立があるが、この両者の対立は、共に、普遍的価値の内容を競うものであるが、普遍的価値の存在それ自体は疑っていない。資本主義は、経済的な自由を重視し、共産主義が平等を志向するという違いこそあるが、共に、近代的な普遍主義の先にある体制なのである。

 もっと言えば、マルクスは次のようにさえ言っている。即ち、資本主義から共産主義への移行は、資本主義の爛熟の果てに、資本主義の最先進国で起こりやすいのだと。であるならば、まともに共産主義をやっている国は今のところ存在しないが、もしも共産主義が実現するとするならば、それは、資本主義の発達の先にあるシステムなのであはないか。そうだとすると、共産主義でもって資本主義に対抗することそれ自体が、同じ土俵の中で勝負させられてしまっているということなのだ。

 外山はそれを否定する。外山が資本主義に対抗するためにファシズムを対置するのは、それが外部であるからだろう。資本主義、或いは改良版資本主義たる共産主義では、動物の様に人間を管理していくと同時に、人類を”幸福”にしていく生権力に対抗できない。実存主義的主体の団結たるファシズムこそが、それに対抗できる可能性を持っているのだ。

 

⑤感想

 『政治活動入門』は、全体として、外山恒一の総括的な思想の、最も適切な入門書ではないかという印象を受けた。外山恒一の考え方の基本中の基本が幅広く提示されるのている。普通に左翼な面がある自分としては、全ての論点に完全に納得できたわけではないが、それでも非常に面白かった。