竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ② ヘーゲルと反ヘーゲル

 前回の続きである。今回は、第三章「近代思想の捉え返し」と、第四章「反=ヘーゲルの哲学」をまとめた。

 

 

第三章 近代思想の捉え返し

 第一章、現代思想の冒険から一転、第二章では、現代思想の冒険以前、即ち、近代思想がどの様な冒険をしてきたかを考察していく。竹田は、近代思想の流れを追うためには、デカルトカントーヘーゲルマルクスの流れを追うことが重要だという。

 

デカルト

 デカルトが考えていたことは、次のようなことだ。

 

⑴まずデカルトは、感覚というものはひとを欺くことがあるから、一切のものを疑う(信用しない)という立場に立つべきだと言う。

⑵一切の疑わしいものを排除し尽くした挙句、世界の中で唯ひとつだけ疑えないものがある。それは、考えている自分の存在ということである。ここから「我考えるゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という命題が導かれる。

⑶この唯一疑えない場所から出発して、〈神〉の存在の、全く合理的で理性的な(つまり誰にも納得できるような)証明ができるかどうか試みること。

⑷人間の合理的理性は、この〈神〉の存在証明を納得するはずであり、〈神〉は人間の認識を誤ったものとして与えているはずがないから、適切な理性の使用によって得られたものを人間は現実の正しい認識と見なして差しつかえない。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 ポイントは二つある。

 第一のポイントは、方法的懐疑だ。

 当時、あちこちの国を巡ったデカルトは、その土地によって、人々の考え方があまりに違い、かつそれぞれの人が自分の考えこそが正しいのだと思っていることに衝撃を受ける。しかし、そんな状況でも、本当に正しい認識を獲得して、そこから共通理解に至れる可能性があると信じ、模索した結果として、全てを疑う考え方が出てくる。そして、〈私〉という考える主体こそが、唯一信じられるものだとしたのであった。

 第二のポイントは、神の存在証明だ。

 デカルトが生きていた近世の時代は、前述の通り混乱の時代であった。そんな時代こそ、神への信仰こそが人間を善意に導けるはずであったが、当時のスコラ神学にその役割は果たせなかった。だから、デカルトは、スコラ神学とは違うやり方で、神の存在を証明したかったのだ。その方法とは、どんな人間にも共通する、〈私〉からスタートするという方法である。

 しかし、実際にデカルトが行った神の存在証明は、非論理的なもので、決して誰もが納得できるものではなかった。しかし、そうした論理の杜撰さを指摘することよりも有意義なのは、デカルトの発想がどの様な意味を残したかを考察することだ。

 その意味は二つある。第一は、世の中の人々は様々な考え方に分裂していて、何の留保もなしに、“正しい”世界観など想定できないということを示したことだ。第二に、人間の精神をスコラ神学の鎖から解放して、〈私〉という理性から、世界を認識する筋道を示したことだ。

 デカルトが提出した、認識の普遍性、正しさを確保することの難しさ。言い換えると、これは、〈主観〉と〈客観〉はどの様に一致するのかという問題でもあるわけだ。こうした問題は、カントに引き継がれていくこととなる。

 

②カント

 カントは、この難問に対して、〈物自体〉という新しい概念を導入する。

 例えば、ある人間が机の上のリンゴAを見ているとする。人間の目に映る、言い換えると、〈主観〉に浮かび上がるリンゴAがある。一方で、机の上に存在している、言い換えると、〈客観〉として存在するリンゴAがある。この両者は一致しないというのがカントの主張だ。この時、後者の、〈客観〉としてのリンゴAのことを、〈物自体〉とカントは呼ぶのである。

 認識と物自体が一致しないのならば、正しく、普遍的な認識は構築できないのだろうか。

 カントは、正しい認識の構築は不可能だが、普遍的な認識の構築なら可能だと答える。

 というのも、人間が認識しうるのは、いわば、〈物自体〉を多少歪めたものだ。しかし、この“歪み”は、人間誰しもが先験的に持っている認識の装置によるもので、普遍的な“歪み”である。つまりカントは、〈本質の世界〉と〈現象の世界〉は一致しないが、個々の人間に意識される〈現象の世界〉だけなら、一致させることは可能だと考えたということだ。

 では、〈本質の世界〉は、人間と関係がないものなのか。いや、そうではない。カント曰く、〈本質の世界〉、言い換えると、〈真〉〈善〉〈美〉は、人間が認識することは出来ないが、それを意志することならばできると主張するのである。

 

 デカルトとカントの思想は、両者共に、荒廃していく時代の中で、共通理解を理性的に構築するには、個人はどう振舞うべきかを探求していたと言える。しかし、近代、フランス革命に始まる激動の時代が始まると、ヘーゲルマルクス的な、現実の社会のダイナミズムを持った変遷を説明する哲学が登場してくる。

 

ヘーゲル

 ヘーゲルはまず、カントの哲学、〈主観〉と〈客観〉は不一致であり、かつ、〈主観〉は〈客観〉を意志することしかできないという哲学に反対する。

 まずヘーゲルは、意識というものを二分する。例えば、我々が何かを見ている時、対象についての〈知〉としての意識と、自分がそれを見ているということについての〈真〉としての意識が二重に存在する。この二つの運動が重なり合うことで、人間の認識は深まっていく。(〈真〉としての意識が良く分からない)

 〈客観〉というものは、〈意識〉が、その進化の過程で知り得る全ての総体として存在している。言い換えると、〈意識〉と弁証法的発展の終局に、〈客観〉は存在しているのだ。

 カントの場合、人間が道徳へと向かう意味は、個人レベルの話であった。しかし、ヘーゲルは、社会総体として、認識の弁証法的発展が客観へと進化していくことを説いたのであった。こうして、哲学の主題は、〈個人〉から、〈社会〉、或いは〈社会〉と〈個人〉の関係性へと移行していく。

 

マルクス

 マルクスは、ヘーゲル的な世界観の批判的継承者である。

 マルクスは、ヘーゲルと同様、人間の社会的本質を重視した。ヘーゲルはそれを、〈人倫〉と呼んで、マルクスはそれを、〈類的本質〉と呼ぶ。

 ヘーゲルの考えでは、まず、〈家族〉の中で、人間は〈人倫〉を身に着ける。しかし、〈市民社会〉の競争によって、〈人倫〉は失われてしまうが、〈労働〉と〈教養〉を積むことによって、〈国家〉へと弁証法される。〈国家〉において、高次の次元で、〈人倫〉が回復されるのである。

 マルクスは、こうしたプロセスを、特に〈労働〉についてのヘーゲルの甘い考えを批判する。

 〈労働〉とは、確かに本来的には、人間と自然との物質代謝であり、類的本質の表れである。しかし、〈資本―貨幣〉の存在がこれに入り込むことによって、労働は、商品交換に従属した〈賃労働〉に成り下がってしまって、類的本質から疎外されるのだ。だからこそ、〈資本―貨幣〉の原理を乗り越えない限り、弁証法による社会的本質の回復はありえないのだ。

 

 以上の様に近代思想の流れを総覧した時、近代思想がその倫理の単位を、〈個人〉から〈社会〉へと移行していったことがわかるだろう。確かに、人間個人が道徳的になることは重要だが、それは現実の社会の中で実現されなければ意味がないと考えたのがヘーゲルであった。これに対して、その前提を認めつつも、現実の市民社会が人間の社会的本質と余りにも敵対しているということを暴いたのが、マルクスだったのだ。

 こうした、ヘーゲルマルクスの考え方は、その論理の上では“正しい”。しかし、現代は、“正しい”筈の論理では、人間の社会的本質がどうしても実現できない、或いは、実現しようとすればするほど遠のいてしまうというジレンマに陥ったのだ。だからこそ、深刻なニヒリズムの時代に突入しているのである。

 このニヒリズムに対抗するために、デカルトカントーヘーゲルマルクスの流れに対抗して存在した、“反ヘーゲル”の哲学が、近代思想にも脈々と根付いていることに着目すべきだと竹田は言う。その流れは、キルケゴールから始まる。

 

 

第四章 反=ヘーゲルの哲学

近代哲学における中心課題は、次の二つである。

一つは、〈主観/客観〉の難問に代表されるような“認識問題”であり、もう一つは、この世で人がどう生きるべきかという、“人間の問題”であった。ヘーゲル哲学は、近代合理主義の思惟の枠組みの中で、この両者を総合的にまとめ上げて、一つの体系を構築したということが出来る。

しかし、そうした近代合理主義が完成していくのと全く同時期に、それと真っ向から対立する様な思想が存在していたことを忘れてはならない。それは、キルケゴールと、ニーチェの哲学である。

 

キルケゴール

 キルケゴールの哲学で重視されるのは、〈死〉である。〈死〉から滲み出す人間の不安や絶望が、人間の精神を規定する。

 キルケゴールは、絶望を二つの観点から捉える。一つは、〈有限性―無限性〉という観点から、もう一つは、〈可能性―必然性〉という観点からである。

 まずは、〈有限性―無限性〉について。

 無限性の絶望とは、人間は、「人類」や「歴史」の運命といった、永続的な価値に自己を同化しようとするが、そうした試みは必ず挫折する。自己はどんどん抽象化し、希薄になっていくからだ。一方、有限性の絶望とは、世間の生活に埋没して、自身の本来性を失っていくことへの絶望である。

 無限的/抽象的な理想に限らず、家族や地域社会といったものを水準とした、有限的/具体的な理想も必ず失敗する。何故なら、人間は死ぬからだ。死によって、全ての理想、又、理想に向かって行われた行為は無意味になるからだ。

 次に、〈可能性―必然性〉について。

 人間の自由の感覚は、“可能性”によって得られるものだ。“可能性”こそが、人生を意味づける。しかし、〈死〉は、そんな可能性が、結局は全て喪失してしまうことということにほかならない。〈死〉を目前にして、可能性のすべてを失った人は、一切のことが必然性/日常性の中に閉じ込められてしまうということだ。“終わりなき日常”というヤツだろう。

 こうした考え方は、ヘーゲルマルクスの人間観と根本的に対立する。

〈歴史〉や〈社会〉といった永遠的な価値に自分を捧げろとヘーゲルは言う。しかし、そんなことをしたところで、それは無限性の絶望、或いは必然性の絶望に陥るだけだということを、キルケゴールは主張するのだ。極度に単純化して言えば、ヘーゲルが、〈歴史〉や〈社会〉から〈人間〉を見つめたのに対して、キルケゴールは、〈人間〉の側から、〈歴史〉や〈社会〉を見たということである。

 キルケゴールは、こうした観点によって、人間の存在本質には、〈歴史〉や〈社会〉には還元できないものが隠されているということを暴いた。〈実存〉と〈社会〉の対立は、深刻なものとして現代に立ち現れてくるが、この問題については後に考えよう。竹田は、近代思想におけるもう一人の反=ヘーゲル的哲学の巨人、ニーチェの説明に入る。

 

ニーチェ

 ニーチェは、前回一度触れているが、ここで、キルケゴール的な文脈で、もう一度捉えなおそう。

 ニーチェは、キリスト教を、“弱者道徳”として非難する。即ち、現実世界における弱者が、彼岸の生に、あらゆる可能性を託したのがキリスト教だということだ。こうすることで実は、現世における生の可能性が奪われているのである。

 これは、“神が死ん”でからも変わらない。キリスト教の役目を代行した近代哲学は、苦しみに満ち溢れた今の〈世界〉は“誤って”いて、そうではない、“正しい”世界が存在するはずであり、それを目指さなければならないとしたわけである。

 しかし、ニーチェに言わせれば、こうした推論は最悪の推論である。こうした推論に従ってしまえば、世界の理想状態なるものが実現不可能であるという“現実”を突き付けられた途端、“可能性”を奪われ、人間は無限性の絶望に陥ってしまうのだから。

 ニーチェの推論は、現代思想の展開を見てみれば、合っていたと言わざるを得ない。社会分析の果てに至った結論は、人間の社会的本質は決して回復されず、社会はこのシステムを永遠に存続させるだろうということだった。ニーチェが予測したその通りの形で、ニヒリズムが蔓延っているのだ。

 では、ニーチェはこうしたニヒリズムを、どの様に克服すべきだというのか。

 まず、現実として認識しなければならないのは、この世界は苦しみに満ちているということだ。強者が弱者を利用して、自分の力への意志を実現する。こうした世界は、“誤り”でも“正しい”わけでもなく、ただただ“現実”として存在するのである。

 こうした認識の上に、思想がなすべきことは何か。ニーチェ曰く、それは、“客観的な価値を創出する”ということである。ここで創出される様な“客観的価値”は、キリスト教の様に、「生への意志」を削るものであってはならない。寧ろそれを高める様なものを構想しなければならない。そうしてニーチェは、“超人”“永劫回帰”へと向かうわけである。

 

 ニーチェの思想から、私たちは何を引き継ぐべきか。竹田曰く、それは次のように表現される。

 

まずわたしたちは、思い切って、理想的な〈社会〉が実現されるべきであり、そうでなければ人間は一切の可能性を失うという、近代思想以来の〈社会〉思想の根本的理念を棄て去るべきなのである。そうではなくて、〈社会〉は完全な理想には決して到達しえないかもしれないが、それにもかかわらず、人間は、自己の関係本質を実現し得る「可能性」を持っているし、また一方で人間が〈社会〉を永続的に改変してゆこうとする努力には、はっきりとした意味も根拠もある、とわたしには思えるのである。 (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 この様に考えると、現代思想の問題は次のように表現できる。

 現実として、人間が〈社会〉への可能性をかける様なものを、どう見つけるのか。言い換えれば、人間が“勝手に”創り出しているに過ぎないはずの客観的秩序の“リアルさ”“ほんとうさ”は、どの様な根拠を持つのか。

 それを見るために、竹田はフッサールを取り上げる。