竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ④と全体の感想 バタイユ、竹田的哲学

 竹田青嗣現代思想の冒険』のまとめ④である。まとめ①まとめ②まとめ③の続きである。今記事が『現代思想の冒険』に関する最後の記事になるので、全体の感想も含めて書いていきたい。

 

 

 

 

終章 エロスとしての世界

 

バタイユ

 ハイデガーは、人間の欲望の本質的なものを「良心」というかたちで表現した。しかし、「良心」では、意識的な判断をして、それに従って意志するというニュアンスを持ってしまう。

 しかし、本来欲望とは、理性的判断とは関係なく、有無を言わせずに心を魅惑していくものだから、「良心」という名称はふさわしくない。だから、竹田はそれを、“エロス性”と名称する。以降、“エロス性”という表現が多発するが、それは、異性、或いは芸術、〈美〉に感じるような、狭義の“エロス性”だけでなく、広く欲望を喚起する様な、広義の“エロス性”も含む。

 竹田は、「エロス性」を解明する為に、バタイユを援用する。バタイユは、人間が“幻想”に魅惑されてしまう原因を次のように説明する。人間は、その生が、一度限りで、交換不可能な「非連続」的な存在である。これは、人間は、決して〈他者〉と通じ合うことはできないということを意味している。だから、人間は「孤独」であり「絶望」するのだ。

 「孤独」であり、「絶望」した人間は、それを打ち消そうとして、無意識的に「連続性」を欲望することになる。その結果、人間社会は、「連続性」を示すメタファーで溢れることになる。

 バタイユ曰く、「連続性」の最も端的なメタファーは、〈死〉である。一般的には、〈死〉こそ、非連続性の象徴なのだが、“だからこそ”、大きな生命の流れや、「聖なるもの」への合一を意味する場合が多いのだ。

 この様なバタイユの仮説から、近代―現代思想の文脈にとって重要なものを引き出せる。欲望の本質性がエロス性ならば、それは、「絶望」や「孤独」といったものを、打ち消して“隠蔽”するという否定的作用を持つというよりも、それを“乗り越え”ようとする積極的作用を持つのではないかというものだ。両者の違いは、前者がルサンチマンの色合いを帯びるものだとしたら、後者がそうした否定的な色合いを帯びない、人生を色づける様なものとして、欲望が捉えられているということだ。

 こうしたバタイユの考えは、ハイデガーと類比できる。ハイデガーは、実存の意味として「死への先駆」を重視するのに対して、バタイユは、欲望の根源として「死の乗り越え」を重視したと言えるだろう。

 

竹田青嗣

 以上、本書で行われた、近代―現代思想を通じて為されてきた、〈社会〉と〈人間〉との関係性の考察について、著者・竹田青嗣はどの様に答えるのだろうか。竹田は、両者のもつれた関係を、まずは、〈人間〉という項から、〈実存〉的に、ほどいていこうとする。

 

 人間の〈実存〉において、最も重要なことは、生きている中で、生の可能性が著しく限定されているという事実である。生の可能性を最も限定するものは、〈死〉であろう。生の可能性が限定されているからこそ、狭義の「エロス性」を、個人として、日常生活の中で味わいたいという欲望を持つ。しかし、〈死〉によって、そうした日常社会での欲望も、結局は挫折を運命づけられている。

 だからこそ、人間は〈社会〉への信を深めてしまう。個人として味わうエロス性だけでは充足できない何かが、人間に〈真理〉〈社会〉を欲望させ、人間をそこへ駆動してしまうのである。

 ここで、「エロス性」は、二つに分かれて存在している。一つは、〈個人〉が、個人単位で、日常生活の中で消費していく、狭義のエロス性である。もう一つは、そうした〈個人〉を乗り越える、超越的なエロス性である。前者の日常生活的なエロス性を、〈美〉、〈芸術〉、〈恋愛〉、〈(狭義の)エロス〉であるとするならば、後者の超越的なエロス性は、〈社会〉〈世界〉〈真理〉〈善〉が持つ、固有のエロス性と言うことが出来るだろう。

 竹田は次のように言う。

 

多くの人間は、ただいわば日常化され、交換可能となった(つまりかけがえのないというかたちではない)〈美〉や〈エロス〉を味わい、消費することしかできない。わたしの考えでは、〈社会〉という項に対する人間の信が必然的でありまた普遍的なのは、まさしくこの事情に由来するのである。

多くの人間にとって味わい得るのが、日常化され、交換可能となった〈美〉や〈エロス〉だけであるということ、これはまた、そこで見出される欲望が、常に他人の実現しているそれとの誤差としてしか、姿を現さないということでもある。(中略)現代社会における人間の欲望は、総じてこのような欲望の円環(相対的な欲望)の中に封じ込められているといってよい。

おそらく〈社会〉へ向かおうとする人間の欲望が根拠を持ち、またそれが決して最終的に否認できないものであるのは、多くの人間はこの日常性を超え出るようなエロスの可能性を自分自身の力だけでは容易に作り出すことができない、という事情によっているのである。

ある点では、人間が〈社会〉の変え得ることを信じるのは、〈美〉や〈芸術〉の世界を信じることと基本的には同じ意味を持っている。それはともに日常を超え得るかも知れないという可能性への、いわば〈実存〉上の賭けである。だが、この賭けうることは〈美〉や〈エロス〉への〈実存〉的な賭けとは異なった根拠を持っている。〈美〉や〈エロス〉への賭けは、日常世界のうちがわで、いわば個々の人間が自分自身の日常性を「超越的」なものと取り換えようとするような賭けにほかならない。

(中略)〈社会〉という思想上の項が人間にとって現実的な根拠を持っているのは、(中略)〈美〉や〈エロス〉を端的な超越性として生きることができず、また、この現実世界からもそれに代わるものとしての夢を受け取ることできない多くの人間にとって、残されたほとんど唯一の超越への可能性だからである。 (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 つまり、〈美〉や〈芸術〉のエロス性が、〈実存〉の絶望をより強調するだけに陥ってしまうとき、その絶望を乗り越え得る賭けとして、エロスとしての〈世界〉が立ち現れるのだ。だからこそ、あらゆる〈世界〉に類するもの、例えば〈社会〉、〈真〉、〈善〉、〈神〉といった、超越的な外部のリアリティが消失してしまったポストモダンにおいても、それらの項は、〈個人〉にとって重要なのだ。

 ここにおいて、〈世界〉という概念への視線変更が起っている。〈世界〉に個人が参加する理由とは、何も、形而上学的な真理のためではない。実存論的に絶望した個人が、それを乗り越える契機として、〈世界〉を発見していくのである。

 この様に考えるならば、抑圧的でない形で、〈社会〉を構想することも可能だろう。〈社会〉は、形而上学的に存在する〈理想状態〉へと導かれるのでもないし、ましてや、〈個人〉は、そこにたどり着くための道具ではない。現にある〈社会〉の中で、人間がその都度抱えている生きづらさの感覚から出発して、その閉塞を超えるものとして、〈社会〉は常に構想される。

 〈社会〉を改変しようとする努力にも、従来とは異なった説明が必要だろう。

 確かに、〈社会〉批判には、或るいは叛乱、革命には、常に、特権的な権力者や富者たちへの反発が根底に存在する(ブルジョアジー、貴族、王、領主等……)。こうした恨みは、ニーチェ的に言うと、弱者道徳という風に解釈されてしまうだろう。(蛇足だが、ニーチェ思想のそういう面こそが、エリートビジネスマンが自慰行為に使うビジネス書に、ニーチェ哲学がたくさん使われる理由なのだろう。)

 しかし、叛乱、革命は、ルサンチマン的な説明だけでは足りない。人間の欲望の根底には、〈個人〉という閉塞を超越して、〈社会〉と繋がりたいという欲望があるはずだ。

 つまり、〈社会〉を信じるということは、他者との相互理解の可能性を信じるということだと言うことができる。バタイユは、狭義のエロス、性的なエロスの根底には、他者との非連続性を乗り越えて、〈他者〉と通じ合いたいという欲望があることを見た。狭義のエロスの内にも、その根源には、〈他者〉という項が存在してしまっているのである。だからこそ、〈社会〉、〈真理〉、〈善〉、〈世界〉への欲望というのは、今後も、人間の欲望の根底として存在し続けるはずだ。

 

 

感想

 

①全体として

 『現代思想の冒険』は、全体として非常に分かりやすかったと思う。難しい哲学用語を出しながらも、竹田がそのたびに、平易な言葉で説明しなおしてくれる。竹田の本は、『プラトン入門』を読んだことがあったが、その本と同じくらい、本書も非常に分かりやすかった。

 加えて、『現代思想の冒険』は、取り扱っている思想家の量がべらぼうに多い。これさえちゃんと読み込めば、よっぽどアカデミックな厳密さを要求しない限り、近代―現代思想の大体の流れは掌握できるのではないだろうか。

 一つ、疑問点としてあるのは、フロイトが不在なことだ。僕個人はどうも精神分析的な考え方はピンと来ず、フロイトマルクスなら、断然マルクスの方が好きである。しかし、だからこそ、フロイトの、“オイディプス”とか“エゴ”とかの概念を、竹田の平易な言葉で説明して欲しかったのである。20世紀に最も大きな影響力を持った思想家は、マルクスフロイトだという話をよく聞く気がする。これほど膨大な数の思想家を取り扱って、フロイトの名前が一度も出てこないというのは、何か理由があるのだろうか。

 

②内容

 最後の、竹田青嗣の、「エロスとしての世界」論には全面的に納得した。僕自身がずっと頭の中で考えていたことを、ちゃんと哲学的に、かつ論理的に説明してくれている感じがして、読んでいて非常に気持ちよかった。

 プチブルで健常者で男性で大学生で、はっきりとした問題を持たず、目に見える形での抑圧は受けていない僕が、政治運動的なものが好きな理由は、竹田が終章で説明していることが全てな気がする。

 政治というものは、正論でマウント取る場でもなければ、ツマラナイ議会政治とそれに付随する活動が起こる場所でもない。暗い部屋の中で一人アニメを見ているよりもずっと、ドキドキして、胸躍るような体験ができるかもしれない場所として、政治が存在しているのだと僕は思う(結局それ自体が、部屋の中でのオタク的妄想に過ぎないが……)。

 68年の学生運動なんかを見ていると、そういう雰囲気が色濃く漂ってくる。絶望的なニヒリズムに陥ってしまったが故の観念的な蜂起。勿論、現代的な倫理からすれば、そんな観念的でフワフワした理由で暴れられたらたまったもんじゃないということになるだろう。

 実際僕もそれはそうだと思う。しかし、それでも、商品化されてしまった芸術を、広告の様に、オタク的に消費していくことは耐えられないのだ。そんなことをしても、全く救われない。寧ろ、ニヒリズムが深くなっていくだけである。

 〈世界〉も〈社会〉も〈神〉も、全く空虚になり始めているからこそ、逆に、〈個人〉が〈実存〉から、強烈にそれらの超越性を求めるということがあると思う。

 

 竹田が終章で言う、〈世界〉というものエロス性、芸術性。これは多少乱暴に言い換えると、「非芸術が持つ芸術性」ということではないだろうか。

 この芸術性は、芸術が芸術である限り、絶対に獲得できないものである。何故なら、特に現代的な消費資本主義の社会の中で、芸術と名乗ってしまえば、その瞬間に、社会の差異化の記号の一部を背負うだけの、一人で消化して楽しむだけの商品に成り下がってしまうからである。“哲学”でも、“思想”でも、“政治”でも、なんでもいいが、とにかく“芸術”ではない何かを自称して、強引に〈他者〉を巻き込んで、〈世界〉を獲得しようとしていくことでしか、持つことができない芸術性というものが、存在するとぼくは思う。