竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ④と全体の感想 バタイユ、竹田的哲学

 竹田青嗣現代思想の冒険』のまとめ④である。まとめ①まとめ②まとめ③の続きである。今記事が『現代思想の冒険』に関する最後の記事になるので、全体の感想も含めて書いていきたい。

 

 

 

 

終章 エロスとしての世界

 

バタイユ

 ハイデガーは、人間の欲望の本質的なものを「良心」というかたちで表現した。しかし、「良心」では、意識的な判断をして、それに従って意志するというニュアンスを持ってしまう。

 しかし、本来欲望とは、理性的判断とは関係なく、有無を言わせずに心を魅惑していくものだから、「良心」という名称はふさわしくない。だから、竹田はそれを、“エロス性”と名称する。以降、“エロス性”という表現が多発するが、それは、異性、或いは芸術、〈美〉に感じるような、狭義の“エロス性”だけでなく、広く欲望を喚起する様な、広義の“エロス性”も含む。

 竹田は、「エロス性」を解明する為に、バタイユを援用する。バタイユは、人間が“幻想”に魅惑されてしまう原因を次のように説明する。人間は、その生が、一度限りで、交換不可能な「非連続」的な存在である。これは、人間は、決して〈他者〉と通じ合うことはできないということを意味している。だから、人間は「孤独」であり「絶望」するのだ。

 「孤独」であり、「絶望」した人間は、それを打ち消そうとして、無意識的に「連続性」を欲望することになる。その結果、人間社会は、「連続性」を示すメタファーで溢れることになる。

 バタイユ曰く、「連続性」の最も端的なメタファーは、〈死〉である。一般的には、〈死〉こそ、非連続性の象徴なのだが、“だからこそ”、大きな生命の流れや、「聖なるもの」への合一を意味する場合が多いのだ。

 この様なバタイユの仮説から、近代―現代思想の文脈にとって重要なものを引き出せる。欲望の本質性がエロス性ならば、それは、「絶望」や「孤独」といったものを、打ち消して“隠蔽”するという否定的作用を持つというよりも、それを“乗り越え”ようとする積極的作用を持つのではないかというものだ。両者の違いは、前者がルサンチマンの色合いを帯びるものだとしたら、後者がそうした否定的な色合いを帯びない、人生を色づける様なものとして、欲望が捉えられているということだ。

 こうしたバタイユの考えは、ハイデガーと類比できる。ハイデガーは、実存の意味として「死への先駆」を重視するのに対して、バタイユは、欲望の根源として「死の乗り越え」を重視したと言えるだろう。

 

竹田青嗣

 以上、本書で行われた、近代―現代思想を通じて為されてきた、〈社会〉と〈人間〉との関係性の考察について、著者・竹田青嗣はどの様に答えるのだろうか。竹田は、両者のもつれた関係を、まずは、〈人間〉という項から、〈実存〉的に、ほどいていこうとする。

 

 人間の〈実存〉において、最も重要なことは、生きている中で、生の可能性が著しく限定されているという事実である。生の可能性を最も限定するものは、〈死〉であろう。生の可能性が限定されているからこそ、狭義の「エロス性」を、個人として、日常生活の中で味わいたいという欲望を持つ。しかし、〈死〉によって、そうした日常社会での欲望も、結局は挫折を運命づけられている。

 だからこそ、人間は〈社会〉への信を深めてしまう。個人として味わうエロス性だけでは充足できない何かが、人間に〈真理〉〈社会〉を欲望させ、人間をそこへ駆動してしまうのである。

 ここで、「エロス性」は、二つに分かれて存在している。一つは、〈個人〉が、個人単位で、日常生活の中で消費していく、狭義のエロス性である。もう一つは、そうした〈個人〉を乗り越える、超越的なエロス性である。前者の日常生活的なエロス性を、〈美〉、〈芸術〉、〈恋愛〉、〈(狭義の)エロス〉であるとするならば、後者の超越的なエロス性は、〈社会〉〈世界〉〈真理〉〈善〉が持つ、固有のエロス性と言うことが出来るだろう。

 竹田は次のように言う。

 

多くの人間は、ただいわば日常化され、交換可能となった(つまりかけがえのないというかたちではない)〈美〉や〈エロス〉を味わい、消費することしかできない。わたしの考えでは、〈社会〉という項に対する人間の信が必然的でありまた普遍的なのは、まさしくこの事情に由来するのである。

多くの人間にとって味わい得るのが、日常化され、交換可能となった〈美〉や〈エロス〉だけであるということ、これはまた、そこで見出される欲望が、常に他人の実現しているそれとの誤差としてしか、姿を現さないということでもある。(中略)現代社会における人間の欲望は、総じてこのような欲望の円環(相対的な欲望)の中に封じ込められているといってよい。

おそらく〈社会〉へ向かおうとする人間の欲望が根拠を持ち、またそれが決して最終的に否認できないものであるのは、多くの人間はこの日常性を超え出るようなエロスの可能性を自分自身の力だけでは容易に作り出すことができない、という事情によっているのである。

ある点では、人間が〈社会〉の変え得ることを信じるのは、〈美〉や〈芸術〉の世界を信じることと基本的には同じ意味を持っている。それはともに日常を超え得るかも知れないという可能性への、いわば〈実存〉上の賭けである。だが、この賭けうることは〈美〉や〈エロス〉への〈実存〉的な賭けとは異なった根拠を持っている。〈美〉や〈エロス〉への賭けは、日常世界のうちがわで、いわば個々の人間が自分自身の日常性を「超越的」なものと取り換えようとするような賭けにほかならない。

(中略)〈社会〉という思想上の項が人間にとって現実的な根拠を持っているのは、(中略)〈美〉や〈エロス〉を端的な超越性として生きることができず、また、この現実世界からもそれに代わるものとしての夢を受け取ることできない多くの人間にとって、残されたほとんど唯一の超越への可能性だからである。 (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 つまり、〈美〉や〈芸術〉のエロス性が、〈実存〉の絶望をより強調するだけに陥ってしまうとき、その絶望を乗り越え得る賭けとして、エロスとしての〈世界〉が立ち現れるのだ。だからこそ、あらゆる〈世界〉に類するもの、例えば〈社会〉、〈真〉、〈善〉、〈神〉といった、超越的な外部のリアリティが消失してしまったポストモダンにおいても、それらの項は、〈個人〉にとって重要なのだ。

 ここにおいて、〈世界〉という概念への視線変更が起っている。〈世界〉に個人が参加する理由とは、何も、形而上学的な真理のためではない。実存論的に絶望した個人が、それを乗り越える契機として、〈世界〉を発見していくのである。

 この様に考えるならば、抑圧的でない形で、〈社会〉を構想することも可能だろう。〈社会〉は、形而上学的に存在する〈理想状態〉へと導かれるのでもないし、ましてや、〈個人〉は、そこにたどり着くための道具ではない。現にある〈社会〉の中で、人間がその都度抱えている生きづらさの感覚から出発して、その閉塞を超えるものとして、〈社会〉は常に構想される。

 〈社会〉を改変しようとする努力にも、従来とは異なった説明が必要だろう。

 確かに、〈社会〉批判には、或るいは叛乱、革命には、常に、特権的な権力者や富者たちへの反発が根底に存在する(ブルジョアジー、貴族、王、領主等……)。こうした恨みは、ニーチェ的に言うと、弱者道徳という風に解釈されてしまうだろう。(蛇足だが、ニーチェ思想のそういう面こそが、エリートビジネスマンが自慰行為に使うビジネス書に、ニーチェ哲学がたくさん使われる理由なのだろう。)

 しかし、叛乱、革命は、ルサンチマン的な説明だけでは足りない。人間の欲望の根底には、〈個人〉という閉塞を超越して、〈社会〉と繋がりたいという欲望があるはずだ。

 つまり、〈社会〉を信じるということは、他者との相互理解の可能性を信じるということだと言うことができる。バタイユは、狭義のエロス、性的なエロスの根底には、他者との非連続性を乗り越えて、〈他者〉と通じ合いたいという欲望があることを見た。狭義のエロスの内にも、その根源には、〈他者〉という項が存在してしまっているのである。だからこそ、〈社会〉、〈真理〉、〈善〉、〈世界〉への欲望というのは、今後も、人間の欲望の根底として存在し続けるはずだ。

 

 

感想

 

①全体として

 『現代思想の冒険』は、全体として非常に分かりやすかったと思う。難しい哲学用語を出しながらも、竹田がそのたびに、平易な言葉で説明しなおしてくれる。竹田の本は、『プラトン入門』を読んだことがあったが、その本と同じくらい、本書も非常に分かりやすかった。

 加えて、『現代思想の冒険』は、取り扱っている思想家の量がべらぼうに多い。これさえちゃんと読み込めば、よっぽどアカデミックな厳密さを要求しない限り、近代―現代思想の大体の流れは掌握できるのではないだろうか。

 一つ、疑問点としてあるのは、フロイトが不在なことだ。僕個人はどうも精神分析的な考え方はピンと来ず、フロイトマルクスなら、断然マルクスの方が好きである。しかし、だからこそ、フロイトの、“オイディプス”とか“エゴ”とかの概念を、竹田の平易な言葉で説明して欲しかったのである。20世紀に最も大きな影響力を持った思想家は、マルクスフロイトだという話をよく聞く気がする。これほど膨大な数の思想家を取り扱って、フロイトの名前が一度も出てこないというのは、何か理由があるのだろうか。

 

②内容

 最後の、竹田青嗣の、「エロスとしての世界」論には全面的に納得した。僕自身がずっと頭の中で考えていたことを、ちゃんと哲学的に、かつ論理的に説明してくれている感じがして、読んでいて非常に気持ちよかった。

 プチブルで健常者で男性で大学生で、はっきりとした問題を持たず、目に見える形での抑圧は受けていない僕が、政治運動的なものが好きな理由は、竹田が終章で説明していることが全てな気がする。

 政治というものは、正論でマウント取る場でもなければ、ツマラナイ議会政治とそれに付随する活動が起こる場所でもない。暗い部屋の中で一人アニメを見ているよりもずっと、ドキドキして、胸躍るような体験ができるかもしれない場所として、政治が存在しているのだと僕は思う(結局それ自体が、部屋の中でのオタク的妄想に過ぎないが……)。

 68年の学生運動なんかを見ていると、そういう雰囲気が色濃く漂ってくる。絶望的なニヒリズムに陥ってしまったが故の観念的な蜂起。勿論、現代的な倫理からすれば、そんな観念的でフワフワした理由で暴れられたらたまったもんじゃないということになるだろう。

 実際僕もそれはそうだと思う。しかし、それでも、商品化されてしまった芸術を、広告の様に、オタク的に消費していくことは耐えられないのだ。そんなことをしても、全く救われない。寧ろ、ニヒリズムが深くなっていくだけである。

 〈世界〉も〈社会〉も〈神〉も、全く空虚になり始めているからこそ、逆に、〈個人〉が〈実存〉から、強烈にそれらの超越性を求めるということがあると思う。

 

 竹田が終章で言う、〈世界〉というものエロス性、芸術性。これは多少乱暴に言い換えると、「非芸術が持つ芸術性」ということではないだろうか。

 この芸術性は、芸術が芸術である限り、絶対に獲得できないものである。何故なら、特に現代的な消費資本主義の社会の中で、芸術と名乗ってしまえば、その瞬間に、社会の差異化の記号の一部を背負うだけの、一人で消化して楽しむだけの商品に成り下がってしまうからである。“哲学”でも、“思想”でも、“政治”でも、なんでもいいが、とにかく“芸術”ではない何かを自称して、強引に〈他者〉を巻き込んで、〈世界〉を獲得しようとしていくことでしか、持つことができない芸術性というものが、存在するとぼくは思う。

竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ③ フッサール、ハイデガー

 竹田青嗣現代思想の冒険』について、まとめ①まとめ②に続く、まとめ③である。前回までの所で、人間が抱える秩序についての考えの、”リアルさ”、”ほんとうっぽさ”が問題となった。そこで竹田は、フッサールを取り上げる。

 

 

 

 

 第五章 現象学と〈真理〉の概念(フッサール

 現象学とは何か。

 竹田曰く、それは、〈社会〉や〈歴史〉のあるべき姿を合理的に把握できるという、近代思想の一つの前提に対抗する一方で、“認識方法”を厳密に主題化しようとする点で、近代的な問題意識を引き継ぐ面もあった。現象学は、近代的な発想の極限において、近代的な前提を否定した思想と言うことが出来る。

 現象学をより詳細に理解するために、フッサールを取り上げよう。

 

フッサール

 フッサールは、〈主観と客観の一致〉という、認識論のアポリアに対して、どの様に答えるのか。竹田曰く、その答えは、次のようなものである。

 

彼(フッサール)によれば、この「一致」は原理的に確かめ得ないばかりではなく、むしろ一方に〈主観〉があり、もう一方に〈客観〉があるという近代哲学の前提そのものがそもそも誤りにすぎない。つまり、フッサールが問おうとするのは、この誤った前提が一体なぜ現れたのか、という問題にほかならなかった。(竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 フッサールの問題意識を解明する為に、もう一度ニーチェについて考えよう。

 ニーチェは、〈意識〉される様な対象、つまり、快不快の感情、目的、目標、意味等を“理想”として信じるなということを言った。それらを基準に世界を“解釈”して、“理想”を構築してしまうと、必ず禁欲主義に陥ってしまう。

 そうして、ニーチェが取り上げる“解釈”が、“力への意志”である。これによって、人間の“意識”の対象の外部にある、生成論的なエネルギーを肯定できると、ニーチェは考えたのだ。

 しかし、ドゥルーズの思想のことを考慮すると、我々は、ここで奇妙な事実に遭遇する。〈意識〉の外部だったはずの、ニーチェ的“力への意志”、ドゥルーズ的“欲望”は、その様な言葉で対象化されることによって、一つの“理想”を形成してしまう。資本主義の公理系によって、欲望の力が妨げられているという発想そのものが、欲望をあるがままの姿に開放すべきという、“理想”を前提にしてしまっているのだ。

 ここで陥った難問は、言い換えると次のようなことになる。対象化されたものを基準に〈仮説〉を立てると、それは、〈現実〉を抑圧する理想を作ってしまう。だから、〈生成論〉的に、認識の外部を想定しろと言う。しかし、そうした生成論自体が、外部を〈仮説〉として対象化してしまっていて、論理の形としては、結局同じ穴のむじなになっているということだ。

 そうであるならば、〈仮説〉を立てることそのものを問題とするよりもむしろ、それが〈仮説〉に過ぎないにもかかわらず、私たちは、どうしてそれを〈ほんとうだ〉という風に感じるのかということを問題にした方が良いだろう。ここまで来て、フッサール現象学の意味は明らかになるのだ。

 

 フッサールはまず、〈主観〉同士の間で成立する認識の普遍性は、決して〈客観〉と一致しているということを意味しないことを確認した。その根拠は、〈主観〉の内側における「確信の構造」にしかないはずだ。

 そして、〈主観〉の「確信の構造」は、大きく二つに分けることができる。一つは、自分個人の確信であり、もう一つは、他人の確信によって築かれる、間主観性としての確信である。

 例えば、ある人が、その人自身としては、“リンゴが赤い”と確信していたとしても、周りの人間が“リンゴは青い”と確信していたとしたとする。この時、私は、自分個人としては確信していることになるが、しかし、間主観性においては確信に至れない。従って、その人にとって、リンゴの色の〈真理〉は、確信できない曖昧なものとなってしまうのである。

 フッサールは、ここから更に論を進める。自分個人としての確信にも、意識されない部分で、間主観性が入り込んでいることを指摘するのだ。

 例えば、〈社会〉というものの〈本質〉について、私たちはどの様に了解しているのかを考えてみよう。私たちはそれを、例えば賃労働の体系とか、愛の体系とか捉えるわけであるが、そうした把握は常に、〈社会〉という“言葉”を通じて認識されるものである。そして、その“言葉”は、私たちが生まれる前から集団的に形成されてきたのだ。人間は、間主観的構造の中で、言葉を後から習い覚えていくものである。私たちは、“自分で”、それを認識し、確信に至っている様に見えて、実は、間主観的な意味の体系に、不可避的に足を踏み入れてしまっているのである。そして、だからこそ、人間には相互理解の可能性があるのである。

 

 こうした考え方は、言葉というものの性質に着目して、人間の共通認識の構築の可能性を担保してくれていると同時に、その限界をも露呈している。竹田によれば、それは次のようなものである。

 

今見て来たような考え方をフッサールの用語で端的に言うと、わたしたちは意見の違いを互いに交換し合うとき、必ず確信の像(超越)の場面から遡って、その像が成立してきた自己の〈内在〉にむかって相互に問いかけているということになる。しかし〈内在〉は、わたしたちが言葉とともに織り上げている実感的な生の意識だから、一方で〈他人〉との間の相互的な確かめの契機を含んでいると同時に、それ自身の固有のニュアンスを取り払うことができない。つまりひとが〈世界〉に対して抱いているエロス価値は千差万別であり、したがってそこから現れる「超越」も決して最終的に完全な「一致」に達することはあり得ないということが明らかである。だからそれをあえて「一致」させるには、一定の「公理」をどうしても必要とするのである

(中略)近代思想の根本的公理は、繰り返し見て来たように、すべての人間がその関係本質を実現できるような〈社会〉の条件を、最も効率的に作り出すという要請にほかならなかったと言える。思想の正しさは、それが真の世界に「一致」しているか否かではなく、この「公理」に照らしてのみ確かめうるのである。そしてこの「公理」に即して考える限り、ヘーゲルマルクスの築き上げた思想上の仕事は大きな正しさを持っていたと言わなくてはならない。

ところで、わたしたちが現代思想の難問をとおして見てきたことは、この「公理」がそれ自体に孕んでいる矛盾と背理であった。その背理とは、全く理想的な世界が求められるべきであると考える限り、その不可能性が露になり、そのことによって、かえってわたしたちは思想上の〈絶望〉に陥ることになる、ということにほかならなかった。(竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 つまり、あえて戯画的に言えば、フッサール現象学は、ある意味ではヘーゲルマルクス哲学の正しさを再確認しただけであったとさえ言い得るのであり、キルケゴールの問いかけを克服できてはいないということだ。キルケゴールは、〈実存〉には、〈真理〉には収まりきらない側面があるということを訴えていたのであった。

 ここで問題となるのは、〈実存〉と矛盾しない形での〈公理〉を導くということはそもそも可能なのか、そして、もし可能ならば、いかにしてそれは可能なのかということである。

 

 フッサール現象学の思想的意味を、近代哲学の文脈からもう一度まとめよう。

 フッサール現象学は、デカルト―カント―ヘーゲルマルクスによって探された、〈客観〉〈真理〉の探究可能性が、ニーチェによって粉々に砕かれたところに端を発する。〈客観〉がないのにも関わらず、何故、人間は〈客観〉の様な超越的秩序を模索してきたのか。これを、人間同士の〈意識〉と〈意識〉の間から説明しようとしたのが現象学であった。

 

 

 第六章 存在と意味への問い(ハイデガー

 ここで再び我々は〈実存〉の問題に立ち返らざるを得ないだろう。何故なら、フッサール的な共通理解を構築する際に、ポストモダン状況の今、無邪気に〈公理〉を唱えることは不可能だからだ。ポストモダンとは、〈社会〉が、一つの公理に従って、完全な社会に到達することはないであろうと人々が思っている時代だからである。そして、〈社会〉に還元されえない〈個人〉を見つけたのであるが、それを100年以上前から提起していたのが、キルケゴールなわけであった。

 竹田がこの章で取り上げるのは、ハイデガーだ。ハイデガーは、フッサール現象学を引き継いだうえで、「存在論」という新しい概念を導入したのである。

 

 竹田曰く、ハイデガー哲学とは、現象学の方法でもって、キルケゴール的な〈死〉の問題を取り扱った思想である。

 ハイデガーが受け継いだ現象学の方法とは、“人間の心”の捉え方を、単なる“モノ”とは異なるやり方で捉えるということである。

私たちが、“モノ”の存在を捉える時、それは既に、“対象”として捉えている。つまりそれは、人間にとって、一般的な利用可能性があるかないかという観点によって、対象が捉えられているというわけである。この様に、あらゆる“モノ”は、ある特定の“観点”から判断される。

 一方で、“人間の心”=心的存在というのは、“モノ”とは違う面がある。それは、およそあらゆる存在の中で、“人間の心”だけが、“対象化される”のみならず、ある事物を“対象化する”性質を持つということである。つまり、心とは、観点そのものを定立するのであって、その働きこそが、心を心たらしめているのだ。

 ハイデガーは、このことに徹底的に拘った。そうして生まれる問いが、「そもそもあるとは一体何か」という問いである。

 ハイデガーは前述の様な、“人間の心”の捉え方と、“モノ”の捉え方との違いに拘る。だから、心を記述する際に、モノを記述する様な秩序化の観点から語るのではなくて、それ自体が観点を定立する働きを持つような、“体験”を、ありのまま記述することを要求する。ハイデガーは、〈人間〉が〈世界〉の中に存在するという意味を、〈人間〉の観点から探求したのだ。

 

 こうしたハイデガー哲学には、二つの特色がある。

 一つは、ヘーゲルマルクス的な、近代哲学の見方を反転してしまっているということだ。普通は、事物の秩序が確固として存在していて、それを事後的に私たちが認識すると考える。しかし、ハイデガーは違う。ハイデガーは、世界の中に投げ込まれた〈個人〉という観点からスタートして、そこを起点に、新しい秩序が開示されていくと考えたのである。

 例えば、ハイデガーは、「内世界的存在」=「存在的」という言葉と、「世界内存在」=「存在論的」という言葉とを区別して考える。内世界的存在というのは、事前に存在する秩序の中に、ある主体が事後的につけ加わる形のことを言う。他方、「世界内存在」は、世界とは、われわれの〈意識〉の中に徐々に姿を開示して、やがて、確固とした客観的秩序として、〈意識〉に信じられるようになるということである。言い換えると、「世界内存在」的には、〈世界〉とは、人間の〈体験〉の中で〈開示〉されていく環境のことだと捉えられているのである。

 もう一つのハイデガー哲学の特色は、〈人間〉を取り扱う際のスタート地点である。デカルトは、考える〈私〉からスタートする。カントは、客観的秩序に向き合った〈主観〉からスタートする。一方ハイデガーは、もっと矮小な所から、つまり、もっと一般的な、日常世界の中の人間=世人という所から、哲学を開始させるのである。確固たる〈私〉が意識の上で確立されるよりも前に、人間は、世界の中に投げ込まれてしまっていて、日常生活を営んでしまっているということを重要視するのだ。

 これら二つの特色は、“神の作った世界/私”や、“唯物史観”といった、特異な前提からスタートせずに、普遍的に妥当するものから考察を始めようという、ハイデガーの意識の現れと言えるだろう。だからこそ、ポストモダン的な問題意識にも通ずる内容を、ハイデガー哲学は獲得しているのだ。

 ハイデガー哲学の現象学的方法論を明らかにしたところで、ここからは、その思索の具体的内容を記述していく。

 

 ハイデガーは、日常世界の中で、一般的に存在している人間を、世人と呼び、そんな世人について、「テイラク」(漢字変換できなかった)という表現を用いる。「テイラク」とは、世間日常の一般的な世事に取り紛れているという意味である。「テイラク」している世人は、日常世界の中で、あれが欲しい、あれが食べたいとった風に、〈世界〉を組み立てている。

 重要なのは、ハイデガー曰く、人間は普通、生活上のそうした雑多な関心から、自分というものの性質を理解しているということである。デカルト的な、確固たる〈私〉からスタートして、〈世界〉を理解するということとは、全く逆の現象がここでは起きている。

 そして、こうした「テイラク」の状態は、キルケゴールの「有限性の絶望」と類似的と言うことが出来る。というのも、人間が日常の世界に没頭して自分を忘れようとしているのは、ある意味では、ニヒリズム的絶望からきているからだ。

 つまり、次のようなことである。物心つき始めた頃は、人間はだれしも素直に、〈社会〉とか〈世界〉といった、自分を超える大きなものを素朴に信じているものである。しかし、〈死〉という絶望的現実が何度も頭をよぎる中で、〈社会〉への確信は放棄されていく。〈社会〉や〈世界〉といった、永遠的な存在がもしあったとしても、それが、すぐに死んでしまう〈私〉にとって、一体どんな関係があるというのか。テイラクした世人は、日常世界に没頭していくことで、こうした、「有限性の絶望」から目を背けようとしているのである。

 

 ハイデガーは、世人分析の次に、死の実存論的分析を行う。しかし、それに踏み込む前に、議論を分かりやすくする為にも、キルケゴール的〈個人〉派と、ヘーゲルマルクス的〈社会〉派との対立を、もう一度確認しておこう。

 〈個人〉派においては、個人が持つ死の絶望から思索が始まる。確かに、絶望を乗り越えるために、〈神〉、或いはそれと類比し得る、〈真理〉〈社会〉〈世界〉を信じるということはある。しかし、それは言うなれば、超越的なものが徹底的に信じられないという絶望に陥るからこそ、”あえて”、”逆に”、徹底的にそういうものを信じようとしているということである。〈社会〉派は、〈社会〉というものを素直に信じてしまっている。要するに、個人が持つ絶望というものが視野に入っていないというのが、〈個人〉派がする〈社会〉派批判の要旨だ。

 一方、〈社会〉派は、〈個人〉派の人間が、未来を信じず、死によってどうせ潰えてしまう”今”に固執してしまうことを批判する。それによって絶望から逃れようとするのは、一種の賭けにすぎないのではないか。

 ハイデガーが行う、死の実存論的分析は、まさしくこの〈死〉の絶望と、それに対する一種の賭けに関する考察なのだ。

 

 人間にとって、〈死〉とは常に、体験できない可能性であり、具体的には、現存在することが最早できなくなってしまうという可能性として知覚される。こうした恐ろしい可能性に対して、人間はそれを隠蔽しようとする。しかし、抑圧された「死の可能性」は、その実、つねに頭をもたげており、それが、「不安の気分」として表れるのである。

 世人が死を隠蔽しようとする一方、ハイデガーは、死を「現存在に最も固有な可能性」と表現する。これは一体どういうことか。

 〈死〉を隠蔽することで、人間は、世人としての慣習、文化、世界を創り出す。世人が抱える可能性は、何かを飲みうる、お金持ちになり得るといった可能性で、他人との交換可能性を持ってしまった可能性である。

 しかし、〈死〉だけは異なる。〈死〉は、他人と交換できない固有の可能性として存在している。だからこそ、〈死〉を自覚し、〈死〉を、いつでも選びうる自分だけの可能性と把握して、〈死への自由〉を持たなければならない。そうすることで、人間は、世人的存在から解放されることができると、ハイデガーは言う。

 しかし、「世人的存在から解放される」とは一体何か。

 ハイデガー曰く、自由に生きているという生の感覚は、人間が持つ、様々な生の可能性によって得られる感覚である。しかし、死を隠蔽する世人的存在は、自分の存在可能性を著しく狭めてしまっている。これに対して、死に直面して、死に先駆し、〈死への自由〉として、死をも選び取ることが出来たならば、その時、自分の存在の“全体性”が実現されると、ハイデガーは考えるのだ。

 しかし、ここでさらなる疑問が湧く。死に直面し、存在の“全体性”とやらを生きることができたとして、その時、具体的には、一体どういう生き方ができるようになるのか。ハイデガー曰く、それは、「良心の呼び声」がやってくる生き方である。では、「良心の呼び声」とは一体何か。

 竹田はここで、「良心」を「倫理的なるもの」と言い換えて、それが一体何であるかを解説する。

 キリスト教的、或いは、カント的な倫理は、超越的な外部からの命令である。これを、「弱者道徳」として批判したのがニーチェであったが、ハイデガー的「良心」も、ニーチェとは違った形で、抑圧的な倫理に反対していたのではないだろうか。

 

「死への先駆」とは、人間のこういった日常的なあり方から解き放つわけだから、そこでの「良心」とは、〈社会〉や〈他人〉のほうから命令として現れるような〈倫理的なもの〉を解き放つものになる。では、そういうものを全てとり払ったあとで人間に残るものはなんだろうか。たとえば、ここでの「良心」を、“端的なよきもの”に向かおうとするような人間の欲望のありようととってみればどうだろうか。

ハイデガーによれば、「死への先駆」あるいはその「決意性」は、人間の存在可能性(あり得ること)のいわば極限を示すのだが、これを論理的に表現すれば、およそ「よいもの」に対する欲望の極限が「良心」という言葉で表されていると考えることができる。もちろんここでの「よいもの」とは、単に規範や命令としての「倫理」ではなく、素晴らしいもの、美しいもの、豊かなもの、およそ人間の心を魅惑するものと考えた方がいい。(竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 竹田は、ハイデガー的「良心の呼び声」を、素晴らしいもの、美しいもの、豊かなものに向かって、人間の意識が発する根源的な欲望のことなのではないかとする。言うなれば、ニーチェが、人間の〈意識〉を排除して、「力への意志」という仮説を唱えたのに対して、ハイデガーは、逆に、人間の〈意識〉に徹底的に拘りつくすことで、抑圧的な倫理を生む近代哲学と対決しようとしていたのではないか。

 

 私たちはこうして、反―ヘーゲル的近代哲学の流れを追ってきた。総じて、真なるもの、理想的なるものへ、理性によって到達することの不可能性に直面したニヒリズムの中で、“それにも関わらず”、人間がいかに強く生き得るのかということを思索していた。それで、ニーチェは〈超人〉を、ハイデガーは〈本来的なありうること〉を構想したわけである。

 しかし、そうした構想も結局、私たちの日常世界から乖離したところにある感じを拭えない。人間の可能性、或いは欲望とは、そもそも一体どういうことなのか。それこそが、〈社会〉と〈個人〉の関係を模索し続けた近代―現代思想の最後の問いであるとした竹田は、次章、バタイユを援用しながら、持論を展開していくことになる。

竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ② ヘーゲルと反ヘーゲル

 前回の続きである。今回は、第三章「近代思想の捉え返し」と、第四章「反=ヘーゲルの哲学」をまとめた。

 

 

第三章 近代思想の捉え返し

 第一章、現代思想の冒険から一転、第二章では、現代思想の冒険以前、即ち、近代思想がどの様な冒険をしてきたかを考察していく。竹田は、近代思想の流れを追うためには、デカルトカントーヘーゲルマルクスの流れを追うことが重要だという。

 

デカルト

 デカルトが考えていたことは、次のようなことだ。

 

⑴まずデカルトは、感覚というものはひとを欺くことがあるから、一切のものを疑う(信用しない)という立場に立つべきだと言う。

⑵一切の疑わしいものを排除し尽くした挙句、世界の中で唯ひとつだけ疑えないものがある。それは、考えている自分の存在ということである。ここから「我考えるゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という命題が導かれる。

⑶この唯一疑えない場所から出発して、〈神〉の存在の、全く合理的で理性的な(つまり誰にも納得できるような)証明ができるかどうか試みること。

⑷人間の合理的理性は、この〈神〉の存在証明を納得するはずであり、〈神〉は人間の認識を誤ったものとして与えているはずがないから、適切な理性の使用によって得られたものを人間は現実の正しい認識と見なして差しつかえない。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 ポイントは二つある。

 第一のポイントは、方法的懐疑だ。

 当時、あちこちの国を巡ったデカルトは、その土地によって、人々の考え方があまりに違い、かつそれぞれの人が自分の考えこそが正しいのだと思っていることに衝撃を受ける。しかし、そんな状況でも、本当に正しい認識を獲得して、そこから共通理解に至れる可能性があると信じ、模索した結果として、全てを疑う考え方が出てくる。そして、〈私〉という考える主体こそが、唯一信じられるものだとしたのであった。

 第二のポイントは、神の存在証明だ。

 デカルトが生きていた近世の時代は、前述の通り混乱の時代であった。そんな時代こそ、神への信仰こそが人間を善意に導けるはずであったが、当時のスコラ神学にその役割は果たせなかった。だから、デカルトは、スコラ神学とは違うやり方で、神の存在を証明したかったのだ。その方法とは、どんな人間にも共通する、〈私〉からスタートするという方法である。

 しかし、実際にデカルトが行った神の存在証明は、非論理的なもので、決して誰もが納得できるものではなかった。しかし、そうした論理の杜撰さを指摘することよりも有意義なのは、デカルトの発想がどの様な意味を残したかを考察することだ。

 その意味は二つある。第一は、世の中の人々は様々な考え方に分裂していて、何の留保もなしに、“正しい”世界観など想定できないということを示したことだ。第二に、人間の精神をスコラ神学の鎖から解放して、〈私〉という理性から、世界を認識する筋道を示したことだ。

 デカルトが提出した、認識の普遍性、正しさを確保することの難しさ。言い換えると、これは、〈主観〉と〈客観〉はどの様に一致するのかという問題でもあるわけだ。こうした問題は、カントに引き継がれていくこととなる。

 

②カント

 カントは、この難問に対して、〈物自体〉という新しい概念を導入する。

 例えば、ある人間が机の上のリンゴAを見ているとする。人間の目に映る、言い換えると、〈主観〉に浮かび上がるリンゴAがある。一方で、机の上に存在している、言い換えると、〈客観〉として存在するリンゴAがある。この両者は一致しないというのがカントの主張だ。この時、後者の、〈客観〉としてのリンゴAのことを、〈物自体〉とカントは呼ぶのである。

 認識と物自体が一致しないのならば、正しく、普遍的な認識は構築できないのだろうか。

 カントは、正しい認識の構築は不可能だが、普遍的な認識の構築なら可能だと答える。

 というのも、人間が認識しうるのは、いわば、〈物自体〉を多少歪めたものだ。しかし、この“歪み”は、人間誰しもが先験的に持っている認識の装置によるもので、普遍的な“歪み”である。つまりカントは、〈本質の世界〉と〈現象の世界〉は一致しないが、個々の人間に意識される〈現象の世界〉だけなら、一致させることは可能だと考えたということだ。

 では、〈本質の世界〉は、人間と関係がないものなのか。いや、そうではない。カント曰く、〈本質の世界〉、言い換えると、〈真〉〈善〉〈美〉は、人間が認識することは出来ないが、それを意志することならばできると主張するのである。

 

 デカルトとカントの思想は、両者共に、荒廃していく時代の中で、共通理解を理性的に構築するには、個人はどう振舞うべきかを探求していたと言える。しかし、近代、フランス革命に始まる激動の時代が始まると、ヘーゲルマルクス的な、現実の社会のダイナミズムを持った変遷を説明する哲学が登場してくる。

 

ヘーゲル

 ヘーゲルはまず、カントの哲学、〈主観〉と〈客観〉は不一致であり、かつ、〈主観〉は〈客観〉を意志することしかできないという哲学に反対する。

 まずヘーゲルは、意識というものを二分する。例えば、我々が何かを見ている時、対象についての〈知〉としての意識と、自分がそれを見ているということについての〈真〉としての意識が二重に存在する。この二つの運動が重なり合うことで、人間の認識は深まっていく。(〈真〉としての意識が良く分からない)

 〈客観〉というものは、〈意識〉が、その進化の過程で知り得る全ての総体として存在している。言い換えると、〈意識〉と弁証法的発展の終局に、〈客観〉は存在しているのだ。

 カントの場合、人間が道徳へと向かう意味は、個人レベルの話であった。しかし、ヘーゲルは、社会総体として、認識の弁証法的発展が客観へと進化していくことを説いたのであった。こうして、哲学の主題は、〈個人〉から、〈社会〉、或いは〈社会〉と〈個人〉の関係性へと移行していく。

 

マルクス

 マルクスは、ヘーゲル的な世界観の批判的継承者である。

 マルクスは、ヘーゲルと同様、人間の社会的本質を重視した。ヘーゲルはそれを、〈人倫〉と呼んで、マルクスはそれを、〈類的本質〉と呼ぶ。

 ヘーゲルの考えでは、まず、〈家族〉の中で、人間は〈人倫〉を身に着ける。しかし、〈市民社会〉の競争によって、〈人倫〉は失われてしまうが、〈労働〉と〈教養〉を積むことによって、〈国家〉へと弁証法される。〈国家〉において、高次の次元で、〈人倫〉が回復されるのである。

 マルクスは、こうしたプロセスを、特に〈労働〉についてのヘーゲルの甘い考えを批判する。

 〈労働〉とは、確かに本来的には、人間と自然との物質代謝であり、類的本質の表れである。しかし、〈資本―貨幣〉の存在がこれに入り込むことによって、労働は、商品交換に従属した〈賃労働〉に成り下がってしまって、類的本質から疎外されるのだ。だからこそ、〈資本―貨幣〉の原理を乗り越えない限り、弁証法による社会的本質の回復はありえないのだ。

 

 以上の様に近代思想の流れを総覧した時、近代思想がその倫理の単位を、〈個人〉から〈社会〉へと移行していったことがわかるだろう。確かに、人間個人が道徳的になることは重要だが、それは現実の社会の中で実現されなければ意味がないと考えたのがヘーゲルであった。これに対して、その前提を認めつつも、現実の市民社会が人間の社会的本質と余りにも敵対しているということを暴いたのが、マルクスだったのだ。

 こうした、ヘーゲルマルクスの考え方は、その論理の上では“正しい”。しかし、現代は、“正しい”筈の論理では、人間の社会的本質がどうしても実現できない、或いは、実現しようとすればするほど遠のいてしまうというジレンマに陥ったのだ。だからこそ、深刻なニヒリズムの時代に突入しているのである。

 このニヒリズムに対抗するために、デカルトカントーヘーゲルマルクスの流れに対抗して存在した、“反ヘーゲル”の哲学が、近代思想にも脈々と根付いていることに着目すべきだと竹田は言う。その流れは、キルケゴールから始まる。

 

 

第四章 反=ヘーゲルの哲学

近代哲学における中心課題は、次の二つである。

一つは、〈主観/客観〉の難問に代表されるような“認識問題”であり、もう一つは、この世で人がどう生きるべきかという、“人間の問題”であった。ヘーゲル哲学は、近代合理主義の思惟の枠組みの中で、この両者を総合的にまとめ上げて、一つの体系を構築したということが出来る。

しかし、そうした近代合理主義が完成していくのと全く同時期に、それと真っ向から対立する様な思想が存在していたことを忘れてはならない。それは、キルケゴールと、ニーチェの哲学である。

 

キルケゴール

 キルケゴールの哲学で重視されるのは、〈死〉である。〈死〉から滲み出す人間の不安や絶望が、人間の精神を規定する。

 キルケゴールは、絶望を二つの観点から捉える。一つは、〈有限性―無限性〉という観点から、もう一つは、〈可能性―必然性〉という観点からである。

 まずは、〈有限性―無限性〉について。

 無限性の絶望とは、人間は、「人類」や「歴史」の運命といった、永続的な価値に自己を同化しようとするが、そうした試みは必ず挫折する。自己はどんどん抽象化し、希薄になっていくからだ。一方、有限性の絶望とは、世間の生活に埋没して、自身の本来性を失っていくことへの絶望である。

 無限的/抽象的な理想に限らず、家族や地域社会といったものを水準とした、有限的/具体的な理想も必ず失敗する。何故なら、人間は死ぬからだ。死によって、全ての理想、又、理想に向かって行われた行為は無意味になるからだ。

 次に、〈可能性―必然性〉について。

 人間の自由の感覚は、“可能性”によって得られるものだ。“可能性”こそが、人生を意味づける。しかし、〈死〉は、そんな可能性が、結局は全て喪失してしまうことということにほかならない。〈死〉を目前にして、可能性のすべてを失った人は、一切のことが必然性/日常性の中に閉じ込められてしまうということだ。“終わりなき日常”というヤツだろう。

 こうした考え方は、ヘーゲルマルクスの人間観と根本的に対立する。

〈歴史〉や〈社会〉といった永遠的な価値に自分を捧げろとヘーゲルは言う。しかし、そんなことをしたところで、それは無限性の絶望、或いは必然性の絶望に陥るだけだということを、キルケゴールは主張するのだ。極度に単純化して言えば、ヘーゲルが、〈歴史〉や〈社会〉から〈人間〉を見つめたのに対して、キルケゴールは、〈人間〉の側から、〈歴史〉や〈社会〉を見たということである。

 キルケゴールは、こうした観点によって、人間の存在本質には、〈歴史〉や〈社会〉には還元できないものが隠されているということを暴いた。〈実存〉と〈社会〉の対立は、深刻なものとして現代に立ち現れてくるが、この問題については後に考えよう。竹田は、近代思想におけるもう一人の反=ヘーゲル的哲学の巨人、ニーチェの説明に入る。

 

ニーチェ

 ニーチェは、前回一度触れているが、ここで、キルケゴール的な文脈で、もう一度捉えなおそう。

 ニーチェは、キリスト教を、“弱者道徳”として非難する。即ち、現実世界における弱者が、彼岸の生に、あらゆる可能性を託したのがキリスト教だということだ。こうすることで実は、現世における生の可能性が奪われているのである。

 これは、“神が死ん”でからも変わらない。キリスト教の役目を代行した近代哲学は、苦しみに満ち溢れた今の〈世界〉は“誤って”いて、そうではない、“正しい”世界が存在するはずであり、それを目指さなければならないとしたわけである。

 しかし、ニーチェに言わせれば、こうした推論は最悪の推論である。こうした推論に従ってしまえば、世界の理想状態なるものが実現不可能であるという“現実”を突き付けられた途端、“可能性”を奪われ、人間は無限性の絶望に陥ってしまうのだから。

 ニーチェの推論は、現代思想の展開を見てみれば、合っていたと言わざるを得ない。社会分析の果てに至った結論は、人間の社会的本質は決して回復されず、社会はこのシステムを永遠に存続させるだろうということだった。ニーチェが予測したその通りの形で、ニヒリズムが蔓延っているのだ。

 では、ニーチェはこうしたニヒリズムを、どの様に克服すべきだというのか。

 まず、現実として認識しなければならないのは、この世界は苦しみに満ちているということだ。強者が弱者を利用して、自分の力への意志を実現する。こうした世界は、“誤り”でも“正しい”わけでもなく、ただただ“現実”として存在するのである。

 こうした認識の上に、思想がなすべきことは何か。ニーチェ曰く、それは、“客観的な価値を創出する”ということである。ここで創出される様な“客観的価値”は、キリスト教の様に、「生への意志」を削るものであってはならない。寧ろそれを高める様なものを構想しなければならない。そうしてニーチェは、“超人”“永劫回帰”へと向かうわけである。

 

 ニーチェの思想から、私たちは何を引き継ぐべきか。竹田曰く、それは次のように表現される。

 

まずわたしたちは、思い切って、理想的な〈社会〉が実現されるべきであり、そうでなければ人間は一切の可能性を失うという、近代思想以来の〈社会〉思想の根本的理念を棄て去るべきなのである。そうではなくて、〈社会〉は完全な理想には決して到達しえないかもしれないが、それにもかかわらず、人間は、自己の関係本質を実現し得る「可能性」を持っているし、また一方で人間が〈社会〉を永続的に改変してゆこうとする努力には、はっきりとした意味も根拠もある、とわたしには思えるのである。 (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 この様に考えると、現代思想の問題は次のように表現できる。

 現実として、人間が〈社会〉への可能性をかける様なものを、どう見つけるのか。言い換えれば、人間が“勝手に”創り出しているに過ぎないはずの客観的秩序の“リアルさ”“ほんとうさ”は、どの様な根拠を持つのか。

 それを見るために、竹田はフッサールを取り上げる。

教養強化 竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ① ポストモダン社会と現代思想

 竹田青嗣現代思想の冒険』を読んだ。

 この本は現代思想の入門書である。嘘みたいに難解な現代思想を、初学者にも分かりやすい形で解説してくれている。しかし如何せん、内容を詰め込みすぎていて、取り上げる思想家が余りにも多い。読むのだけで十時間くらいかかった。

 『現代思想の冒険』は、最初に現代思想の置かれた状況を概観し、その後、そうした事情に思想がどの様に応答してきたのかということを、思想家を大量に列挙しながら述べていく。最後に、それらを踏まえたうえで、ポストモダン状況に独自に応答しようとした、“竹田的哲学”が語られる。

 竹田が少し触れただけの思想についても、出来るだけ細かく拾っていく。想像で勝手に補う部分もあるので、不正確な内容も記述することになるだろう。それでも、自分が読み返したときに、大体の外観として、現代思想のあらましが分かる(気になるような)文章にするつもりである。

 

取りあえず第一章と第二章をまとめた。それ以降もいつかまとめる。

 

 

 

  • 思想の現在をどう捉えるか

 

 この章では、現代思想がどの様な社会状況の中で、どの様な問題意識を抱えているのかということが語られる。いうなれば、第二章以降の前提となる議論が為されるわけだ。

 現代思想を語るうえで欠かせないのが、20世紀、世界を席巻したマルクス主義が崩壊してしまったことである。それは、マルクス主義の理論としての矛盾が見つかったということよりも寧ろ、一般大衆含めて共有されていたマルクス主義の“リアリティ”が、20世紀後半に失われていくということであった。リアリティが喪失してしまったが故に、理論の矛盾がどこにあったのかが模索されるわけで、その逆ではない。

 そもそも、マルクス主義がリアリティを持った20世紀前半は、帝国主義の時代であった。何故か繰り返される大規模な戦争に、何故か困窮を極めていく日常生活。こうした事象を、説得的な理屈で結び合わせて、かつそこから克服する方法を明示したのが、他ならぬマルクス主義だったのだ。

 

 では、何故マルクス主義のリアリティは失われていったのか。その理由は、大雑把に分類すると二つに分けられる。

 一つは、マルクス主義を語る(騙る)陣営の腐敗である。50年代のスターリン批判に始まり、プラハの春、中国ベトナム戦争、アフガン侵略戦争、etc……。社会主義国家は、自らの独裁制=反社会主義性を明らかにしてしまったのである。

 “国”だけでなく、“運動”にしても同様である。日本においては、50年代半ばにおける六全協から始まったマルクス主義学生運動の混乱は、遂に連合赤軍に帰着していくわけである。山荘内で同志を殺し合うことの、一体どこが社会主義なのだろうか?マルクス主義陣営は、自ら瓦解していったのだ。

 もう一つの理由は、資本主義陣営の修正だ。20世紀初頭は、“階級対立の非和解性”という概念は、プロレタリアートの衣食住における絶対的貧困を、説得的に説明するものであった。しかし、次第に衣食住の問題は改善されて行き、加えて、ボードリヤール的な消費社会のイメージの中で、人々は欲望の充足さえ始めたのだ。つまり、ブルジョアジーは、かつてはプロレタリアートを生産の面から搾取するのみであったが、次第に消費の面から欲望を提供し始めることで、自らに抵抗する主体を骨抜きにしていったのだ。

 

 こうして、マルクス主義のリアリティは失われた。マルクス主義“以降”の新たな思想が何なのかを模索するということが、現代思想に要請されている任務なのである。

 

まず社会の構造を正しく認識し、理性によってその体制を変革していくという、マルクス主義の理念の核心を残すか否か。もしマルクス主義のこの核心を捨てるとすれば、近代を通じて思想が果たしてきた、社会批判、現実批判の文脈を、どのようなかたちで立て直すか。またこの社会批判、現実批判という機能すら不可能であるとすれば、思想にとってなにが残るか。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 ポストモダンとは、思想という営みそのものの基盤が完全に失われてしまったような、思想の廃墟である。この廃墟から、現代思想の冒険が始まるのだ。

 

 

 

 竹田は、現代思想の源流として、ソシュールニーチェを挙げる。まずは、ソシュールの思想から、それに影響を受けた思想家までが紹介されていく。

 

ソシュール

 ソシュールの思想は、それまでの言語学の方式を破壊してしまった。ソシュール言語学の枠組みは、次の三つによって規定される。

 

A、シニフィアン(記号表現)―シニフィエ(記号内容)

B、ラング(言語規則)―パロール(個々の発語)

C、共時態―通時態

 

 Aについて。

 シニフィアンシニフィエの枠組みは、“言語の恣意性”を暴露した。“恣意性”には二つの意味がある。

 一つは、シニフィアンシニフィエのタテの結びつきの恣意性だ。例えば、“馬”のシニフィエについて、それに対応するシニフィアンは、“馬”でもいいし、“horse”でもいいし、“cheval”(仏語)でもいいわけだ。ある一つの記号内容について、どの様な記号表現が結びつけられるかということは、恣意的に決まっていくということである。

 もう一つの恣意性、そして、こっちの方が重要な恣意性なのだが、それは、複数のシニフィアンシニフィエの組み合わせの関係性における、ヨコの関係の結びつきの恣意性だ。

例えば、昔、日本には、犬、野犬、山犬、狼といった、シニフィアンシニフィエの四つの組み合わせが、相互に隣り合って存在していた。一方、現代では、山犬のシニフィアンシニフィエは消失してしまった。しかし、その領域自体が消失したのではない。山犬と記号されていたものは、野犬、狼と記号されるようになっただけである。この事例が示唆することはつまり、ある事象について、それをどう区別するのかは、恣意的に決定されていくということだ。

 Aによって起こったパラダイムシフトは、“実在論から関係論へ”と表現することが出来るだろう。つまり、事物の秩序は、客観的に予め存在しているのではなく、カオスに投げ込まれた主体が恣意的に生み出していくものにすぎないということが暴露されたのだ。

 

 B=ラング/パロールと、C=共時態/通時態について。

 ソシュールがBについて言及するのは、ラング/パロールの関係を、静的なものから動的なものに変更する為だ。

ラング=文法が存在し、その規制に則った形でパロール=個々の発語がなされる。これが通常の理解だ。しかし、現実には、この様な現象と同時に、ラングの規制を逸脱するパロールが生産され続けており、そうした逸脱していくパロールを包摂する形で、新しいラングが形づくられていくということがある。

 この時、共時態/通時態という区別が意味を持ち始める。

共時態とは、ある対象においてその一瞬を切り取って、その瞬間の様相を明らかにすることだが、通時態とは、ある対象の、時を経て変遷していく過程そのものを読み取ろうとすることである。これまで、静的に捉えられてきたラング/パロールは、実は、動的に変化していっているのであって、それを無理矢理共時的に捉えようとしていたにすぎない。静的な見方が無意味な訳ではないが、それだけでは言語の変遷のダイナミズムを捉えられなくる。ダイナミズムを捉えるには、どうしても通時的な見方が必要なのだ。

 

 総じて、ソシュールは、人間が認識する秩序は、そのまま世界の客観的な秩序などでは断じてないということを暴いていったと言うことができるだろう。恣意的な認識だからこそ、認識される世界は言語体系によって余りにも異なってくるし、かつ、時代に応じても変化していくものなのだ。

 ソシュール言語学に影響を受けた思想として、竹田は、構造主義を挙げる。その中でも、レヴィストロースとラカンの思想を取り上げていく。

 

②レヴィストロース

 レヴィストロースは、普段意識されていない関係性や構造を取り上げた。そうすることで、意識される秩序の違いを超えた、人間の、共同的な無意識の普遍的“構造”を探求したのである。

 この考えは、マルクス主義を相対化する。マルクス主義は、人間の社会について、下部構造が上部構造を決定していくという風に捉える。一方レヴィストロースは、下部構造と上部構造の間には、無意識化された目に見えない“構造”があるのではないかとして、これが上部構造に、引いては社会全体に影響を与えているのではないかとしたのであった。

 

ラカン

 ラカンも似た考え方をする。動物は、生理―本能―意識と、なだらかに連続する構造を持っているが故に、欲望の方向が予め決定されている。一方、人間は本能が壊れているから、自己のエネルギーをどこへ向けるか分からない様な状態に身を置かされる(想像界)。これを家族関係という秩序の中に方向づけてゆき、それが社会的な言葉の秩序(象徴界)を織り上げる。意識された欲望の動機は、想像界象徴界という無意識の構造によって規定されていて、それによって社会的関係が形成されると考えたのだ(?自信ナシ。)。

 

 ラカンもレヴィストロースも、下部構造と上部構造、或いは個人と社会という、目に見える二項対立に見出される、無意識の構造について考えた。そしてこれは、“意識”を徹底的に問題化する、ヘーゲルマルクス主義、或いは現象学を批判するものなのである。

 構造主義は、現代思想の関心を、人間の無意識の構造に向けさせた。しかしこれは同時に、そもそもどうすれば人間の無意識にアクセスできるのかという難問も残したのだ。

 

ロラン・バルト

 ソシュール的な言語論を、社会が持つ文化的関係の“意味作用の体系”として捉えなおしたのが、ロラン・バルト記号論であった。この時に出てくる概念が、“デノテーションコノテーション”である。この概念は、シニフィエを更に二つに区分する概念だ。

 例えば、「エキゾチックジャパン」という広告文句を見たとする。その時、このシニフィアンに対応するシニフィエは、明示的な形では、“東洋的な日本”というだけに過ぎない。この明示が、“デノテーション”だ。一方、このシニフィアンは、“日本は素晴らしい国だ”という暗示的なシニフィエをも示唆しており、この暗示が、“コノテーション”だ。

 こうした記号論の発想は、文化の様々な様相を、どこからでも記号論的に意味を分析できるという汎用性を持つ。マルクス主義的な、上部構造―下部構造という、二つの軸だけでは捉えられない、“神話的構造”を、発見し、かつ分析する時に、記号論の発想は有用なのだ。

 

 ソシュール以降の構造主義記号論の展開を追いかけてきた。しかし、これらの手法は、一つのパラドックスに衝突してしまう。

 ソシュール的言語論は、“実在論から関係論へ”というパラダイムシフトを起こした。以降、思想において意識される主題は、客観的秩序そのものというよりも、人間が構築する“意味の体系”の関係性に移行するわけである。しかし、構築された関係性の体系を変更し続ける動力それ自体は一体何なのかという問題は、いくら意味の体系を考察しても永遠に分からないのである。

例えば、既定のラングを逸脱するパロールが、“どこからか”、常に生成し、それらは、“どのようにしてか”、新しいラングを形成していくわけである。この、“どこからか”、“どのようにしてか”の問題は、ある瞬間のラングを共時的に取り上げるだけでは、絶対に解決できない問題なのだ。

これは、即ち、“構造”を正確に認識することそれ自体に向けられた懐疑である。その懐疑をはるか前から主題化していたのがニーチェであり、ニーチェを源泉に、ポスト構造主義が構築されていくのである。

 

ニーチェ

 ニーチェの主張を端的に表現するならば、それは、“近代哲学/形而上学への徹底的なアンチテーゼ”ということになるだろう。

 ニーチェは、キリスト教や道徳思想の起源に、弱者が現実の惨めさをごまかそうとする“ルサンチマン”を見る。このルサンチマンによって、自分を惨めさに陥れるこの現実の世界は、実は、“仮象の世界”であって、その背後に、“真の世界”が存在すると想定される様になる。加えて、“真の世界”を認識する、“客観的認識”、“普遍的認識”をも、同時に想定させるわけである。

 しかし、これらの想定は端的に誤解である。何故なら、どんな観点も客観にはなり得ず、全ては一つの“解釈”にすぎないのだから。

 こうした誤った想定は、その極限に至った時に、自身の矛盾に気づいてしまう。つまり、真理や客観など決して存在せず、超越的な存在などまやかしに過ぎないというニヒリズムに陥ってしまうのだ。

 一度陥ったニヒリズムを克服するのはそう簡単ではない。それでも克服したいのならば、寧ろニヒリズムを徹底させることによって、“真理”を探そうとする近代哲学とは異なった発想を生み出さなければならないのだ。それはつまり、客観的秩序を発見するのではなく、新たな秩序を創り出すということである。

 

 こうしたニーチェの考えは、ヘーゲルマルクス主義が、又、構造主義さえもが陥った、世界の普遍的構造を発見しようとする態度そのものを、根本から批判するものであった。

 ニーチェの思想は、ポスト構造主義に多大な影響を与える。例えば、フーコーは、歴史というものが常に権力によって構築されていくということを綿密な実証的研究によって暴露したのである。ジャック・デリダの“脱=構築”も、この文脈の上に存在する作業だ。

 

デリダ

 “脱=構築”とは何か。

 

それは、ひとりの思想家のテクストから一義的な意味だけを読み取らないで、むしろその背後にそれと対立する様なもうひとつの意味を見出し、後者によって前者を相対化してゆくという方法である。この方法が一般的に“脱=構築”と呼ばれているものだ。

(中略)デリダがこの「脱=構築」を通じて言おうとするのは、最終的に、言葉による厳密な認識の不可能性ということにほかならない。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 デリダは、“ありのまま”という起源を否定する。

普通、ある事物の“ありのまま”は、言葉という記号で指し示されるものだと考える。これは、事物の“ありのまま”の秩序が予め存在しているという前提に従った考えだ。しかし、その前提が誤っていて、実際は、“ありのまま”の内容は、記号によって、その性格が初めて規定されていくのである。

 デリダは、ソシュールをも批判する。ソシュールは、パロール=個々の発話について考えていたわけであるが、デリダはこれを音声中心主義と批判する。デリダは、言語学における主題を、パロール話し言葉から、エクリチュール=書き言葉に移し替えようとするのである。

 音声中心主義においては、“ありのまま”の〈意味〉は、「話すこと」で、ぴったりと一致した形で示される。その「話すこと」は、これ又ぴったりと一致した形で、「書くこと」に写し取られる。〈意味〉(「言わんとすること」)=「話すこと」=「書くこと」という三つが、連続的に一致するわけだ。

 デリダはしかし、この“一致”を否定する。特に、「話すこと」と「書くこと」の間には、大きすぎる断絶が存在するというのだ。

 例えば、『あの空は青い』がパロールとして発話されるときについて考えてみよう。この時、“発話者が感じている空の青さ”=「言わんとすること」を、パロールは表していると言えたとする。しかし、もしそうだとしても、『あの空は青い』というパロールが、“あの空は青い”というエクリチュールに書き換えられると、誰もが発し得る一般的な言語記号の配列に成り下がってしまう。従って、両者の連続性は切断され、同時に、「書くこと」=エクリチュールは、〈意味〉から切断されてしまうのだ。

 〈意味〉の再現であることを辞めたエクリチュールは、ただ単に差異の体系の一部となり、「超越論的な〈意味〉されるもの」を持たなくなる。こうして、外部を持たない差異の体系の中での、「戯れ」が生じるのだ。(ついでに記せば、「差延」も、ただただ差異しか存在しなくなる世界を表す概念ということで、強い関連がある概念だ。)

 

 デリダが言わんとしたことは、一体何なのか。竹田曰く、それは、〈現実〉/〈世界〉というものは、絶対に言葉によって捉えつくすことは出来ず、既成の言葉の体系を乗り越える形で、常に〈現実〉/〈世界〉の新しい相が現れ続けるということである。現実のありのままの〈意味〉と、〈言葉〉とを切断することで、形而上学に死刑を言い渡したのだ。

 デリダ的な認識批判が重要なのは、マルクス主義の硬化した決定論や、党派的倫理主義の側面を、“脱=構築”してきたということである。

 しかし、だからといって、何でもかんでも闇雲に、“脱=構築”していけばいいというものではない。そうなれば結局、「世界に関しては何とでも言えるのだから、様々な風に言ってみることが面白い」という、悪しき相対主義ニヒリズムに陥るだけだ。

 言葉が世界を写し取れないとしても、それが必ずしも、〈世界像〉を編むことの無意味さに直結するわけではない。言葉の世界を編むことの役割というのは、それが真理であるということよりかは寧ろ、それが、美、エロスを形作り、引いては世界に対する欲望を喚起するということにこそ求めるべきではないのか。 

 しかし、竹田はその考察を後回しにして、取りあえずは、マルクス主義以降の社会認識として、ボードリヤールドゥルーズ=ガタリの紹介に移行する。

 

ボードリヤール

 ボードリヤールは、マルクス主義の世界認識の土台となった。“経済学”を批判する。

 ボードリヤールの前提は、マルクスが言う様な、資本主義の決定的な破綻が訪れそうもないという現実であった。そうであるならば、資本/労働、或いは、価値/使用価値等等は、何ら社会的関係の実体を映したものではなく、資本の運動を表象する記号にすぎないのではないか。

 実体が消失してしまって、全てがコピーのコピーのコピーのコピーにすぎなくなってしまう社会を、ボードリヤールシミュラークルと名付けたわけである。

マルクス主義は、プロレタリアが、“本当の欲望”に目覚めて、システムを乗り越える革命の主体になることを期待したわけであったが、それは起こりようもないことである。何故なら、“本当の欲望”など存在せず、存在するのは、閉じた円環の中で提供される、コピーのコピーのコピーのコピーとしての欲望だけだからだ。シミュラークルとは、閉じた円環の中で、実体が消失する社会のことだ。

 こうした閉じた円環を乗り越えるために、ボードリヤールは、システムから贈与される「延期された死」を拒絶することを提案する。そして、〈死〉をつかみ取るのだ。システムの内部の変革ではなく、システムそれ自体の秩序を切り裂くような挑戦をしなければならない。(良く分からない)

 これだけではどうも分かりづらい。ここで竹田は、ドゥルーズ=ガタリ現代社会分析を導入する。

 

ドゥルーズ=ガタリ

 ドゥルーズ=ガタリも、ボードリヤール的な閉じられたシステムを前提として、社会の総体を自動的な“機械”と見なして、これを、「社会機械」と名付ける。

 しかし、ドゥルーズは、システムの動力のことを、「欲望」として想定する。これは、ボードリヤールと対照的である。というのも、ボードリヤールにとっては、欲望も、シミュラークルの中で再生産される記号の一種に過ぎないのに対して、ドゥルーズは、欲望を実体的に扱うからだ。

 更に細かく、ドゥルーズは、「力への意志」と類比的な、動力としての欲望を、そのまま「欲望」と名付ける。対して、ボードリヤール的な、一種の記号として再生産される欲望を、「欲求」と名付けて区別するのだ。

「欲望」には、二つの流れが存在する。「欲求」に変化する流れ、即ち、単なる記号の中に閉鎖していく流れを持つ一方で、同時に、そんな閉鎖から逃れて散逸しようとする流れを併せ持つ。

この、複雑な「欲望」の概念を基にして、ドゥルーズは、社会制度の歴史を次のように三つに大別する。

 

A、古代国家―コード化社会

B、専制主義国家―超コード化社会

C、資本主義国家―脱コード化社会

 

Aにおいて、「欲望」は、近親相姦の禁止という規則によって、コード化されていく。しかし、専制主義機械は、Aにおけるコードを破壊して、全てのコードを帝国へと組織していくのである。

Aの社会にしろ、Bの社会にしろ、欲望は常に、コードから散逸していく流れを持つ。そんな、「脱コード性」そのものをシステムに組み込んでいくのが、C、つまり資本主義国家なのだ。しかし、欲望が完全に脱コード化されてしまえば、資本主義システムは自壊していく。ドゥルーズはそこで、「社会公理系」という、全く新しい概念を導入する。それは、工学的、化学的な体系を持つものだ。コードを散逸する脱コード的欲望も、この、公理系によって調整されていくことで、結局は資本主義に組み込まれていくのである。(意味不明である。)

 

 こうした構想は、社会主義構想を批判する。つまり、AからBの移行の様に、新しい人為的なコードを準備するだけでは資本主義を乗り越えることは出来ないということだ。言い換えると、資本主義における欲望の対立は、〈コード化/脱コード化〉から、〈脱コード化/公理系〉という対立に移行したということである。(全く意味が分からない)

 更に簡潔に言い換える。古代国家、専制主義国家においては、ひとびとの欲望は、神話、共同体の掟、王の権力によって抑圧されてきた。しかし、資本主義国家においては、人間の欲望それ自体が、〈社会〉を公理系として目的化してしまっている。人間の欲望に、社会を超え出る契機が消失してしまったのだ。(ワカラナイ…)

 

 

ソシュールから、デリダ的認識批判、それに、ドゥルーズの新しい社会認識まで、幅広い対象を扱ってきたが、一体、ポストモダンとは、総じて何を示唆するのか。それは、〈社会〉は閉鎖的なシステムになってゆき、人間はそこで意味を失って、単なる個体になるだろうということである。

竹田は、ポストモダン思想の特徴として、次のように語る。

 

第一にそれは懐疑論(もはや世界を手に触れるものとしては決してつかめない)であり、第二にニヒリズム(人間は意味を失う)であり、そして第三に、一番最後に残るものとしての反社会的心情である。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 この最後の、反社会的“心情”とは何か。

 それは、ボードリヤール的には〈死〉によって、ドゥルーズ的には〈狂気〉によって、社会から個人として離脱するしかないということである。“心情”は、共同性を形作れないのだ。現代のニヒリズムとは、ここまでに深刻なものになってしまった。

 

 

現代思想の冒険〉によって、如何なる問題が浮かび上がってきたのだろうか。

 第一には、社会批判というものの不可能性である。ボードリヤールドゥルーズは、ある意味でヘーゲルマルクス的な、“世界を認識する”という仕事をした。しかし、その仕事によって主張されることは、見事なまでに対照的だ。ヘーゲルマルクスは、“認識によって世界を超えられる”としたのに対して、ボードリヤールドゥルーズは、“認識はシステムを超えられない”という結論に陥った。

 第二に、マルクス主義につきつけた刃は、諸刃の剣として、現代思想含めた思想という営みそのものにもつきつけられてしまったということだ。つまり、思想による社会批判は不可能か、それとも可能かということである。戯画的に言えば、不可能の立場を取るのがデリダで、可能の立場に立つのがボードリヤールドゥルーズということだろう(しかし、その“可能”は、「狂気」や「死」によるものなのだが……)。

 

 現代思想が衝突した難問は、これ以上無闇に“冒険”を続けても、解決されることはないだろう。竹田はここで、そもそもの近代思想の捉え返しを図るのであった。

感想 外山恒一 『政治活動入門』

 

外山さん関連で連続してしまうが、新著『政治活動入門』を読んだ。

 一行で感想を要約すると、『政治活動入門』は、「外山恒一がガチで自分のラジカルな活動を世に知らしめようとしてきた‼‼」と感じる本である。以下、章ごとに感想を書いていく。

 

 

 

 

①第一章 「政治活動入門」

 

 第一章「政治活動入門」では、文字通り、外山恒一が政治活動についてどの様な考えを持っているのかということを知ることが出来る。一見、本書のなかでは最も穏健なことを言っている様に見えるが、個人的には最もラジカルであるとさえ感じる章である。

 

 外山はまず、政治活動というと、それらがすぐに選挙活動に関連するものとして帰結してしまうことを批判する。選挙活動は、確かに政治活動の一形態でこそあるが、逆に、それ以上のものでは決してない。

 

 では、外山は、選挙活動に収まらない政治活動をどの様に定義するのか。

 

 曰く、政治活動とは「社会に不当な目を合わされているが故に生じる自身の生きづらさを解消するために、他の個人と問題意識を共有して、協力して、時代状況や社会状況を改変すること」なのである。これだけではいまいち分からないので、細かく解説していこう。

 

 外山はこの、”自身の生きづらさ”という点を非常に大事にしている。自身の生きづらさとは、言い換えれば、”被害者意識”である。被害者意識から政治活動をすることは、一般的に考えればタチが悪いことで、本来であれば、”正義感”から活動をするべきなのではないかと思える。しかし、外山はこんな一般論を完全に否定する。

 

 ”正義感”なるものは所詮他人事であり、自分事として社会を捉えようとする”被害者意識”の方が、意識の強度の点で遥かに勝っており、それこそが、運動の高い強度を実現するのである。

 

 しかし、ここでさらなる疑問がわく。被害者意識なる自分勝手な動機で、他者と問題意識を共有することなどできるのだろうか。

 

 外山は、そんな自己と他者とのギャップを埋めるものが、”勉強”であり、”教養”であると断言する。

 

 生きづらさを抱えているのが自分個人だったとしても、その”自分”は、広い社会に属しているのだから、同型的な生きづらさを抱えている人が数多く居る可能性は高い。そんな生きづらさに、言葉、或いは論理を与えることで、潜在的な仲間が集う場所が生まれるのであって、その為には勉強が不可欠なのである。

 

 外山は、この章で、芸術と学問についても言及している。一般的には、何かと、”政治の介入”が問題に上がるこれら二つの領域であるが、外山は逆に、この二つの領域を、広義の政治活動に包摂してしまおうとする。曰く、学問や芸術の道を追求する人は、大抵の場合、政治活動をする人と同じく、その時代に対する疑念や違和感を抱えている。しかし、それを政治活動によって直接的に解決しようとするのではなく、“あえて”、遠回りして解決しようとしているのが、学問・芸術なのだ。だからこそ、それらには、自分が“あえて”遠回りをしていることを自覚して、その上で、中心に存在する政治に対して、緊張感を持たなければならないとする。

 つまり、外山は、政治活動を“中心”に配置し、それが“周辺”に派生していく形として、学問や芸術を捉えているのだ。こうした、政治中心主義を取る外山は、普通は問題にされるような、政治の介入という概念を、余りにも無邪気に肯定するのである。

 

 これまでの論理は、非常に筋が通っており、又、本文では非常に軟らかい文体で書かれているため、外山恒一らしくない、穏健で、フツーに正しいことを言っている様に勘違いしてしまいそうになる。しかし、文体に騙されてはならない。冷静に考えれば、ここでの外山の主張は、現代のリベラル的な政治活動の概念を真っ逆さまに転倒するものである。

 リベラルは、「選挙で投じる一票が大事で、勉強はせずとも、どんな人でも素朴な正義感から、一緒に声をあげるべき」と考えている。一方の外山は、「選挙は政治活動の特殊な一形態にすぎず、しっかりと勉強をして教養を積み、歪んだ被害者意識を言葉にして共有していくべき」と考えている。両者は見事なまでの対照を成している。

 加えて、芸術や学問の考え方にも違いがある。ノンポリは、「音楽に政治を持ち込むな」と考えて、これに対してリベラル派は「音楽にも政治を持ち込んでいいだろ‼‼」と主張する。

 しかし、外山はこれら二つとは全く異なる観点を出す。それは、「音楽とは政治である」ということだ。持ち込もうとするしないの意志に関わらず、音楽は政治性に取り込まれざるを得ないのだと、暴力的な断定を行ってしまうのである。  或いは、次のようにも表現できるかもしれない。つまり、「政治である筈の音楽に、ノンポリサブカル性を持ち込むな」ということである。いずれにしても、ノンポリ/リベラルが提示する、政治、芸術の二項対立を完全になし崩しにしてしまうのだ。

 第一章は、極めて平易な言葉に優しい文体で書かれてこそいるが、外山の根本のラジカル性が発露している章であった。

 

②第二章 「学生運動入門」

 ここでは、第一章と連続した問題意識の上で、政治活動において、学生、もっと正確に言えば、“若くて知的でヒマな連中”が多く参加することの必要性が語られる。

 外山は一時期、福岡のあるバーで雇われ店長をしていたということであるが、その時、彼の下には、「大学の奴らは政治のことについて全然考えていないんですよ」という大学生が、“たくさん”来るのだそうである。であるならば、シンプルに、そう思っている学生同士が孤立していて、出会っていないだけだという話である。

 外山は、取りあえず、“百人に一人”の学生が、政治的に熱くなることを目標とする。1968年に匹敵する、いつか、電撃的に到来する世界革命の時に十分な力を発揮するために、取りあえず、“百人に一人”が平時は頑張っておくことが大事なのだ。“百人に一人”程度の盛り上がりが平時にあれば十分だし、又、その程度の盛り上がりであれば、現在孤立している学生同士を出会わせることさえできれば、十分に可能だと外山は感じている。

 しかし、何故、“若くて知的でヒマな連中“が必要なのか。これに関しては、自分がその層に該当するというナルシズムも入っているが、大事な観点だと思うが、本題からはそれるので、記述を中断しよう。

 とにかく、外山は学生運動の債権が絶対に必要であり、又、それは現実的な規模で可能だということを説いているのである。

 

 ③第三章 “戦後史”日入門 第四章 学生運動史入門

 この辺りは、“歴史認識”の問題である。非常に面白い章であるが、「外山合宿でやったところだ‼‼」となってしまい、普通に読むのとはどうしても視点がずれてしまう。だから、これら二つの章は省略する。近いうち纏めなおすと思う。

 

 ④第五章 「ファシズム入門」

 外山が掲げる、「ファシズム」が、一体何なのかがここで分かる。

 ここで注意しておかなければならないのは、外山が掲げるファシズムが、一般的にイメージされるような、ナチズムと結びついたものではないということである。本人は、ムッソリーニを大いに参照しているが、だからといってムッソリーニ主義者なのかは怪しい。千坂恭二氏は、次のようなツイートをしている。

 

 

 

 外山自身このツイートをリツイートしている通り、外山が掲げるファシズムは、歴史学的なファシズムというよりかは、ファシズム運動を見て刺激を受けた外山が、独自で編み出した思想と捉えた方が適切かもしれない。(これは非難ではない。外山は学者ではなく革命家なのだから、より魅力的で強度を持った観点を提示することこそが本分なのだ。彼の仕事は歴史の整理ではない)

 そのような前置きをしたうえで、では、外山的「ファシズム」とは何なのであろうか。

 まず、外山は、現時点での社会構想の“全体的なビジョン”の選択肢として、以下の五つを上げる。

 

アメリカニズム

共産主義

ファシズム

アナキズム

ナショナリズム

 

 フェミニズムエコロジー等の個別の課題については、これら五つの大きな観点に包摂される形で表明されていくと外山は言う。

 加えて、この五つの選択肢の内、外山は二つを排除してしまう。まず、アナキズムアナキズムの範疇でとどまっている限りは、政治への強い影響力を持つことはう可能であるとした。次に、ナショナリズムは、他の三つの運動と手を組むならまだしも、独自で勢力を維持するのは難しいだろうとされる。

 では、「ファシズム思想」とは何か。

 ファシズム思想の始祖としてムッソリーニを外山は上げる。ムッソリーニは、元々は限りなくアナキズムに近いマルクス主義陣営の中の極左派として名をあげていた。

 そんな中で、マルクス主義陣営と決定的に決別するのが、第一次世界大戦を巡っての対立であった。ムッソリーニは、レーニン的な論理を突き詰めた、「戦争を内乱に転化するためにまず参戦せよ」という主張を行ったのだ。これによって、ムッソリーニマルクス主義者の陣営から追い出される。

 そんなムッソリーニが、独自路線の「戦闘ファッショ」を結成した時、参加者の大部分は、芸術グループの“未来派”であった。未来派は、物質を始めとした近代的な価値観を徹底的に肯定して、反対に、調和を始めとした古代的な価値観を徹底的に否定した。ムッソリーニの運動は、アナキストと、未来派という、政治、芸術の異端派の運動として始まったのであった。

 そもそも、「ファシズム」というのは不思議な名称である。イタリア語で「ファッショ」というのは、束のことであり、言い換えれば、「党」のことである。普通、「○○党が掲げ○○主義」と言う様に、党の前に来る内容に、「主義」をくっつけるのであるが、ファシズムに関してはなぜか、党の方に主義をくっつけているのだ。無理矢理に和訳すれば、党主義者ということになるが、これは一体どういうことか。

  これには、ファシズムという思想の根本が隠されている。政治的、或いは芸術的な異端派が、取りあえず団結して、一つの運動を形成することそれ自体が非常に重要なことなのであって、実際に何をやるのかは二の次という無内容性にこそ、ファシズム思想の根本があるのだと外山は説く。

 

 では、そんな無内容なファシズムを、外山は何故、今更掲げるのであろうか。それは、ファシズムが、その無内容な団結でもって、何らかの普遍的正義で世界が覆われていくことに、実存主義的感覚を持って対抗しようとするからである。

 例えば、資本主義と共産主義という対立があるが、この両者の対立は、共に、普遍的価値の内容を競うものであるが、普遍的価値の存在それ自体は疑っていない。資本主義は、経済的な自由を重視し、共産主義が平等を志向するという違いこそあるが、共に、近代的な普遍主義の先にある体制なのである。

 もっと言えば、マルクスは次のようにさえ言っている。即ち、資本主義から共産主義への移行は、資本主義の爛熟の果てに、資本主義の最先進国で起こりやすいのだと。であるならば、まともに共産主義をやっている国は今のところ存在しないが、もしも共産主義が実現するとするならば、それは、資本主義の発達の先にあるシステムなのであはないか。そうだとすると、共産主義でもって資本主義に対抗することそれ自体が、同じ土俵の中で勝負させられてしまっているということなのだ。

 外山はそれを否定する。外山が資本主義に対抗するためにファシズムを対置するのは、それが外部であるからだろう。資本主義、或いは改良版資本主義たる共産主義では、動物の様に人間を管理していくと同時に、人類を”幸福”にしていく生権力に対抗できない。実存主義的主体の団結たるファシズムこそが、それに対抗できる可能性を持っているのだ。

 

⑤感想

 『政治活動入門』は、全体として、外山恒一の総括的な思想の、最も適切な入門書ではないかという印象を受けた。外山恒一の考え方の基本中の基本が幅広く提示されるのている。普通に左翼な面がある自分としては、全ての論点に完全に納得できたわけではないが、それでも非常に面白かった。

外山恒一主催 第十四回「教養強化合宿」 7000字レポート

 

革命家・外山恒一さん主催の教養強化合宿というものがある。

 

 

note.com

 

 サイトにあるように、衣食住に関しては全て無料、参加者が負担するのは交通費だけ。それでいて、“九時五時”で、マルクス主義、左翼運動史、そしてポストモダン思想を、外山さんが学生に直接、“外部注入”してくれるという夢の様な合宿である。

 自分は昨日まで、第十四回目となる教養強化合宿に参加してきたので、その感想を残しておきたいと思う。

 予め言っておくと、この記事は、外山合宿はメッチャ良いので、学生は皆行った方が良いということを長々と書くだけである。

 又、14期の参加者の中で自分は、「外山恒一」への偏りが圧倒的に一番強く、昨日まで合宿に参加していた故に合宿の余熱が残っているということも相まって、これまでのどのレポートよりも、偏ったレポートになってしまうと思う。しかし、教養強化合宿自体は、非常に中立的で客観的なものだ。幅広い人が参加して満足できるようなものであり、又、参加者の多くがそういう中立的な立場で学ぶものであった。だから、その辺の偏りは差し引いて欲しく思う。

 

 

 

 

 ①講義について

 教養強化合宿のメインは、講義である。指定されたテキストを、一章ごとに黙読。参加者全員が読了次第、外山さんがテキストの内容に沿った詳細な解説を加えて、分からない部分があれば適宜質問していくというものである。これを”9時5時”で只管八日間繰り返すという、非常にハードなものであった。

 読むテキストは四つで、一日目には外山さんが独自で作成した『マルクス主義入門』を、二日目から四日目には、立花隆『中核vs革マル』を、五日目、六日目には、笠井潔ユートピアの冒険』を、七日目、八日目には、スガ秀美『1968年』を読んだ。

 

 テキストの一冊目は、『マルクス主義入門』である。

 ここでは、大航海、フランス革命、パリコミューンといった歴史的事件から、古代ギリシア哲学、ドイツ観念論ヘーゲルといった思想的トピックまで用いて、マルクス主義がどの様な経緯で成立したのかをまず説明する。次に、『共産党宣言』を主に引用しながら、マルクス主義の内実を説明した後は、それがどの様にロシア革命に帰結していくのかを、ナロードニキ運動、レーニン主義などを用いて説明する。『マルクス主義入門』と銘打たれてこそいるが、扱っているテーマは幅広く、近代の社会運動、社会思想の入門とも言えるようなテキストである。

 外山さんの文章は、学者的な“隠語”が少なく、比較的平易で、無学な自分にも分かりやすかった。個人的には、マルクス主義と直接の関係性はないが、ブランキとネチャーエフの、「革命家」としての性格に衝撃を受けた。

 

 二冊目は、立花隆『中核vs革マル』である。

 中核、革マル、或いは、「全共闘」や「全学連」といった言葉でさえ、巷では、“古臭い過激派左翼”として一緒くたに語られる。しかし、その内実は全然違う。『中核vs革マル』では、題名の通り、中核派革マル派の成立と、両派の抗争を中心に語られる。一節を参加者が読み終わるごとに、外山さんのテキストの内容の解説に加え、中核派とも革マル派とも、理念としては実は敵対している全共闘運動や、その他政治運動の展開、世界各地での主だった政治的事件/運動についての補足が入る。

 ここでは、只管、“量”に圧倒される。立花隆の記述の詳細さも相当なものなのだが、何と言っても、それを解説、補足する外山さんの講義の情報量が凄すぎる。日本史の授業では絶対に聞かない様な単語が大量に飛び交う一方、逆に誰もが知っている様な大きな事件が突然出てきて、それらが総体として、一つの大きな関係性を形作っていく。外山さんはこの合宿を“詰め込み教育”と称しているが、『中核vs革マル』はまさしく“詰め込み”であった。

 

 三冊目は、笠井潔ユートピアの冒険』である。

 二冊目の『中核vs革マル』のジャーナリズムから打って変わって、三冊目の『ユートピアの冒険』では、ソ連の失敗、日本左翼運動の陰惨な展開を受けての、非常に思弁的な考察がなされる。当時、“マルクス葬送派”として知られた笠井は、マルクス主義思想における三つの源泉、即ち哲学・経済学・政治/歴史観の批判として、それぞれグリュックスマン、ボードリヤールドゥルーズガタリポストモダン思想を解説する。

 こうした西洋のポストモダン思想は、旧態依然としたマルクス・レーニン主義を批判すると同時に、フランスでの五月革命に代表される、68年の新しい特殊な政治運動の経験を肯定する為に出てきたものであった。しかし、日本では、そうした政治性を欠いた、無責任で軽薄な文脈で導入されてしまったことを笠井は批判する。最後に、マルクス主義に依らない革命肯定の思想として、笠井潔独自のブランキ的な「ユートピア的叛乱」の構想が語られる。

 笠井潔の著作は全体的に非常に難解であるが、この『ユートピアの冒険』は、他の著作に比べると、かなり平易に書かれている。グリュックスマン、ボードリヤールドゥルーズガタリといったポストモダン思想を、その政治性から解説してくれる為、ポストモダン思想の入門書として、或いは、笠井潔思想の入門書としても、非常に興味深く読めた(それでも難解だが)。

 

 四冊目はスガ秀美『1968年』である。

 『中核vs革マル』が対象の描写に偏った“ジャーナリズム”であり、『ユートピアの冒険』が思想、観点の記述に偏った“哲学書”であったとすれば、『1968年』は、日本の1968年の経験を対象として、それを明確かつユニークな思想、観点でもって記述した、“批評書”であった。スガ秀美自身が立脚する思想の難解さに加えて、取り上げる対象が余りに膨大でかつ細かいため、個人的には最も難解な本と感じた。不正確を承知で乱暴に要約すれば、「“1968年”の全共闘は、一見敗北したかのように見える。しかし、その精神性は、大学当局、アカデミズム、或いは資本によって取り込まれ、その結果として、抑圧的なポリコレと自己責任論が声高に叫ばれる(ネオ)リベラリズムが生まれて来た。」ということであったと思う。

 スガ秀美の文章は、何度もチャレンジしようとしたのだが、無学な自分はいつも30ページ程で挫折してしまっていた。今回は、それまで六日目までに詰め込まれた教養と、外山さんの丁寧な解説でもって、自分一人で読もうとしていた頃よりは、大分理解できた(ような気がする)。

 

 講義全体を通して感じたこととして、まず非常にシンプルに、外山さんがよく語る、政治/思想/文化の三位一体の重要性というものを強く感じた。現代日本では、バカウヨ御用達か、或いは「政治的に正しい」ことが保証された様なものでなければ、政治的な本は読まれない。一方、思想/文化では、そうした単純化した政治性からは乖離した、複雑で難解すぎる隠語が飛び交っている。今回の合宿では、それら三つは一体のものとして語られており、そうすることで、それぞれの事象についてより深く、かつ平易に理解できた。

 加えて、外山さんが指定した、テキストの“順番”に、明確な意図を感じた。

 まずは、『マルクス主義入門』で、マルクス主義の体系性と、ブランキ、ネチャーエフの“カッコよさ”に惹かれて、革命というものを素朴に肯定したくなる。

 次の『中核vs革マル』では、余りにも陰惨な内ゲバが描かれる。しかし、『マルクス主義入門』に照らし合わせれば、日本の特殊な社会状況の中で、マルクス・レーニン主義を律義に応用すると、内ゲバは必然である。僕はここで、マルクス・レーニン主義を肯定するならば、内ゲバ、その他抑圧さえも、市民社会的な論理では絶対に許容しがたいが、認めるしかないのか。それとも、マルクス・レーニン主義を否定し、その先で“政治”それ自体を否定して、市民社会的な合法性の中での遊戯を肯定するしかないのかという、二つの選択肢のことを考えていた(後者を選択したのが、無政治的“ニューアカ”ムーブメントだったのではないか。)。

  しかし、『ユートピアの冒険』では、マルクス・レーニン主義を否定した上での、“政治”肯定が語られる。大雑把に言えば、反乱とは、特定のユートピアへと至る手段なのではなく、反乱それ自体の過程にユートピアが存在するということであった。こうした主張から、笠井はマルクス主義者を以下の様に批判する。

 

フランス革命は、たとえばブルジョア革命だといわれる。だが、そのような観点そのものが、革命の実質であり身体性であるところの現実を空想的に無視しているんだよ。大革命を実行したのは、昨日の絶対王政からも明日のブルジョア体制からも疎外された都市貧民の大群なんだ。  (笠井潔 『ユートピアの冒険』 )

 

 個人的に言い換えると、これは、革命の主体の問題である。マルクス主義者にとっての「プロレタリアート」、右翼にとっての「愛国日本人」の様に、政治思想にはそれぞれ、内容に応じた革命の主体が想定され、又、革命の主体によって、“歴史は進歩”するものだとされる。ポストモダンでは、革命の主体という発想そのものが否定され、そのことで、革命、或いは政治という概念も縮小される。そうして、”歴史の終わり”が訪れる。

 しかし、笠井は、「革命の主体は革命である」という、ある種のトートロジーでもって、この閉塞を打開しようとする。

 笠井の小説、『バイバイ、エンジェル』で、主人公は、次のように語る。

 

そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、灼熱の太陽を、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように深く味わい尽くすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、恐れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。

叛乱は敗北する。秩序は回復される。しかし、叛乱は常にある。秩序は叛乱によってふたたび瓦解するのだ。永続する敗北それ自体が勝利だ。三日間の真実を生きつくす百世代の試みの後に、そうだ、いつか強い眼を持った子供たちが生まれてくるようになる。そうして彼らは、太陽を凝視して飽くことを知らず、僕たちの知らない永遠の光の世界に歩み入っていくことだろう。  (笠井潔 『バイバイ、エンジェル』

 

 どれほど社会が抑圧を深めようと、必ず自主的な形での人民蜂起は絶え間なく発生し、それこそが政治の希望なのだと笠井は説くのだ。いうなれば、笠井は、独断的な批評の言葉の外部に存在する、人民蜂起のロマンチシズムを説いたと言える。

 『ユートピアの冒険』を読み終わった段階で、僕は笠井の主張に完全に納得していた。電撃的に到来する人民蜂起を肯定し、その瞬間を待ち望む。これ以外、一体何が言えるというのだろうか。

 

 しかし、スガ秀美『1968年』は、そんなロマンチシズムと真っ向から対立する、冷酷な現実を突きつける。笠井が、批評的言葉の外部として肯定するであろう、全共闘の反乱は、その実、ネオリベラリズムに回収されたのである。僕はこの、『ユートピアの冒険』→『1968年』という順番に、外山さんの、“革命家”としての明確な意図を感じた。

 確かに、反乱のロマンチシズムは文化として美しい。しかし、本当の意味で現実に政治的たらんとするならば、反乱というものは徹底的に批評されなければならない。笠井が小説家的態度だとすれば、スガ秀美は、徹底的に批評家的態度を取るのだ。

 ロマンチシズムに終わることなく、現実の政治において勝利することの必要性。これは、真に“革命家”であるならば、絶対に説かなければならないことであろう。だからこそ、外山さんが、『1968年』→『ユートピアの冒険』ではなく、『ユートピアの冒険』→『1968年』という順番にしたことは、大いに意味があると思う。

 しかし、正直僕は、ロマンチシズムと現実性との矛盾を、自分の中ではまだ全く解決できていない。今後、自分なりに考えて行こうと思う。

 

 

 ②合宿全体の雰囲気について

 教養強化合宿の基本は“九時五時”の講義である。当たり前だが、講義はずっと真面目な雰囲気で行われるので、雰囲気を記述するまでもないだろう。

 

 講義の時間外は、基本的には何をしてもいいことになっている。食事は、我々団の団員の山本桜子さんが作ってくださるし、消灯時間は特に決まっていないが、その場でいつでも寝れることになっていた。講義の息抜きにケータイをいじったり、合宿参加者同士で真面目に話し合ったり、或いは気楽に話し合ったり、外山さんに講義についての質問を続けたり、早めに就寝したり、外山邸にある映画を鑑賞したりと、参加者によって色々な過ごし方をしていた。僕は、外山さんの話を聞くか、合宿参加者と話し合っていることが多かった。

 合宿には、政治/思想/文化について、様々な知識、関心を持つ、非常に個性的で面白い学生が集まっていた。例えば、名古屋アナキズム研究会の活動で逮捕歴を持つバリバリの活動家、自称革命的山本太郎主義者、多くの映像を制作している映画系の学生、ミスコンを破壊したい学生、議員のボランティア秘書等等,,,,,。僕が何の団体にも属さない半分引きこもりなことはあるが、外山合宿程、個性的かつ知的な若者が集まる場所を自分は思いつかない。参加者の話を聞いて、頭が下がる思いでいっぱいだった。

 参加する前は、良くも悪くも、外山恒一からの影響を強すぎるほどに受けている人しか集まらないだろうと思っていたが、蓋を開けるとそんなことはなかった。「反ポリコレ/反フェミニズム」を掲げている外山さんだが、ポリコレ/フェミニズム派を自任する学生も多く居たし、多数は、非常に幅広い人文系の知識を持った正統派インテリだった(寧ろ自分が、外山さんの活動には詳しいがそれ以外は何も知らない、“外山恒一主義者”というキャラになってしまった……)。

 参加者の皆が自分の様に、外山さんの強い影響下にあったら、互いに話し合っても、外山さんへの信仰告白に終始していたかもしれない。しかし、皆、人文系のことに強い関心を持つという共通点はありつつも、それぞれ異なった主張、関心を持つ学生が集まったおかげで、議論にも熱が入ったという側面は大いにあると思う。

 参加者との議論は非常に白熱した。話していた時間が長すぎて、細かく何を話したのかは正直よく覚えていないが、講義で出てきた内容に即した話が多かった。それ以外にも、環境管理型権力共産主義現代思想現代日本政治、或いは天皇制について話し合っていた(ような気がする)。ポリコレ的な議論をしている人もいたし、自分は文化的な教養がないので参加できなかったが、映画、小説からアニメーションまで、文化の議論をしている人もいた。僕個人は講義と風呂と睡眠以外の時間は、殆ど全て外山さんか参加者と話し合っており、ケータイをいじる時間はおろか、髭をそる時間もなかった。

 

 ③外山恒一について

 僕は、この合宿に来る前から外山さんの影響を強く受けていて、外山さんの活動をネット上でストーキングしていたが、この合宿でさらに強い影響を受けてしまった。以下、非常に強い偏りが出ると思う。

 第一に、知識量が凄すぎる。十日間、八時間ぶっ通しで左翼運動史、ポストモダンを語れるのが凄い。又、授業内容がやはりかなり難しいため、参加者の質問は、質問自体が何を質問しているのか不明瞭ということが多かった(自分も含めて)。それでも、質問者の意図を即座にくみ取って、何か考え込んだりわざわざ調べたりすることなく、すぐに答えをスラスラ言えるのである。インテリ、或いは論客と称される人を初めて生で見たから、非常に衝撃的だった。学者にありがちな“隠語”を使わずに、平易な言葉で説明しようとする姿勢には、在野で活動していくことの重要さも感じた。

 第二に、器が広すぎる。九泊十日の授業内容・経験は、どんな教育機関にも見劣りしないものだと思うが、それでも、衣食住が無料で保障されているのである。普通に考えて、社会常識もろくにわきまえていない、見ず知らずの二十歳前後の若者十数名が、自宅をうろうろ勝手に徘徊して冷蔵庫を漁ったりキッチンを使ったりしているのは(自分が見張っている時はおろか、自分が就寝している時も‼‼)、相当不快なはずだ。何をされるか分かったものではない。

 「活動には拠点が必要」ということは良く聞くが、外山さんは、「自宅を解放して拠点にする」という荒業でもって、最高の拠点を作り出しているのだ。外山さん自身がTwitterで仰る通り、まさしく“善行企画”であり、革命家からの無償の贈与を感じた。

 第三に、外山さんの活動の政治的ラジカリズムを、より強く感じた。外山恒一というと、後藤輝樹やマック赤坂と並べて、“政見放送芸人”として知られているが、外山さんの経歴は、れっきとした活動家である。

 多くのオモシロ主義が、脱力感に基づいたオモシロ主義だとすれば、外山恒一的なオモシロ主義は、政治的ラジカリズムの緊張感を伴っている。授業を受けていると、或いは話を聞いていると、そのオモシロ主義の背景にあるラジカル性が非常に強く感じられるのである。政治的緊張感とユーモアとを高度に両立させているからこそ、外山さんの活動はアート的な文脈でも評価されるのだと思った。

 

  ④まとめ

 長々と下手な文を書いたが、要約すると、「とにかくメッチャ良かった‼‼」ということである。

 繰り返す通り、自分の感想は、非常に「外山恒一」への偏りが強いものになっているが、それは寧ろ例外である。もっと偏りのない公正な人から見たら、違った感想が出るに違いない。

 しかしともかく、左翼運動史と、それに関連するポストモダン思想に異常に詳しく、異常に説明の上手い人が、無料で少人数に講義をしてくれるのだ。それに加えて、政治/思想/文化的な事柄に熱意を持っているという、今時珍しい学生との交流も出来るのだから、非常に良い経験であることは間違いない。

 とにかく素晴らしいので、左翼も右翼もノンポリも、ポリコレ派も反ポリコレ派も、哲学好きも文学好きも映画好きも、陽キャ陰キャも引きこもりも、全学生が一度は行ってみるべき合宿である。