竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ③ フッサール、ハイデガー

 竹田青嗣現代思想の冒険』について、まとめ①まとめ②に続く、まとめ③である。前回までの所で、人間が抱える秩序についての考えの、”リアルさ”、”ほんとうっぽさ”が問題となった。そこで竹田は、フッサールを取り上げる。

 

 

 

 

 第五章 現象学と〈真理〉の概念(フッサール

 現象学とは何か。

 竹田曰く、それは、〈社会〉や〈歴史〉のあるべき姿を合理的に把握できるという、近代思想の一つの前提に対抗する一方で、“認識方法”を厳密に主題化しようとする点で、近代的な問題意識を引き継ぐ面もあった。現象学は、近代的な発想の極限において、近代的な前提を否定した思想と言うことが出来る。

 現象学をより詳細に理解するために、フッサールを取り上げよう。

 

フッサール

 フッサールは、〈主観と客観の一致〉という、認識論のアポリアに対して、どの様に答えるのか。竹田曰く、その答えは、次のようなものである。

 

彼(フッサール)によれば、この「一致」は原理的に確かめ得ないばかりではなく、むしろ一方に〈主観〉があり、もう一方に〈客観〉があるという近代哲学の前提そのものがそもそも誤りにすぎない。つまり、フッサールが問おうとするのは、この誤った前提が一体なぜ現れたのか、という問題にほかならなかった。(竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 フッサールの問題意識を解明する為に、もう一度ニーチェについて考えよう。

 ニーチェは、〈意識〉される様な対象、つまり、快不快の感情、目的、目標、意味等を“理想”として信じるなということを言った。それらを基準に世界を“解釈”して、“理想”を構築してしまうと、必ず禁欲主義に陥ってしまう。

 そうして、ニーチェが取り上げる“解釈”が、“力への意志”である。これによって、人間の“意識”の対象の外部にある、生成論的なエネルギーを肯定できると、ニーチェは考えたのだ。

 しかし、ドゥルーズの思想のことを考慮すると、我々は、ここで奇妙な事実に遭遇する。〈意識〉の外部だったはずの、ニーチェ的“力への意志”、ドゥルーズ的“欲望”は、その様な言葉で対象化されることによって、一つの“理想”を形成してしまう。資本主義の公理系によって、欲望の力が妨げられているという発想そのものが、欲望をあるがままの姿に開放すべきという、“理想”を前提にしてしまっているのだ。

 ここで陥った難問は、言い換えると次のようなことになる。対象化されたものを基準に〈仮説〉を立てると、それは、〈現実〉を抑圧する理想を作ってしまう。だから、〈生成論〉的に、認識の外部を想定しろと言う。しかし、そうした生成論自体が、外部を〈仮説〉として対象化してしまっていて、論理の形としては、結局同じ穴のむじなになっているということだ。

 そうであるならば、〈仮説〉を立てることそのものを問題とするよりもむしろ、それが〈仮説〉に過ぎないにもかかわらず、私たちは、どうしてそれを〈ほんとうだ〉という風に感じるのかということを問題にした方が良いだろう。ここまで来て、フッサール現象学の意味は明らかになるのだ。

 

 フッサールはまず、〈主観〉同士の間で成立する認識の普遍性は、決して〈客観〉と一致しているということを意味しないことを確認した。その根拠は、〈主観〉の内側における「確信の構造」にしかないはずだ。

 そして、〈主観〉の「確信の構造」は、大きく二つに分けることができる。一つは、自分個人の確信であり、もう一つは、他人の確信によって築かれる、間主観性としての確信である。

 例えば、ある人が、その人自身としては、“リンゴが赤い”と確信していたとしても、周りの人間が“リンゴは青い”と確信していたとしたとする。この時、私は、自分個人としては確信していることになるが、しかし、間主観性においては確信に至れない。従って、その人にとって、リンゴの色の〈真理〉は、確信できない曖昧なものとなってしまうのである。

 フッサールは、ここから更に論を進める。自分個人としての確信にも、意識されない部分で、間主観性が入り込んでいることを指摘するのだ。

 例えば、〈社会〉というものの〈本質〉について、私たちはどの様に了解しているのかを考えてみよう。私たちはそれを、例えば賃労働の体系とか、愛の体系とか捉えるわけであるが、そうした把握は常に、〈社会〉という“言葉”を通じて認識されるものである。そして、その“言葉”は、私たちが生まれる前から集団的に形成されてきたのだ。人間は、間主観的構造の中で、言葉を後から習い覚えていくものである。私たちは、“自分で”、それを認識し、確信に至っている様に見えて、実は、間主観的な意味の体系に、不可避的に足を踏み入れてしまっているのである。そして、だからこそ、人間には相互理解の可能性があるのである。

 

 こうした考え方は、言葉というものの性質に着目して、人間の共通認識の構築の可能性を担保してくれていると同時に、その限界をも露呈している。竹田によれば、それは次のようなものである。

 

今見て来たような考え方をフッサールの用語で端的に言うと、わたしたちは意見の違いを互いに交換し合うとき、必ず確信の像(超越)の場面から遡って、その像が成立してきた自己の〈内在〉にむかって相互に問いかけているということになる。しかし〈内在〉は、わたしたちが言葉とともに織り上げている実感的な生の意識だから、一方で〈他人〉との間の相互的な確かめの契機を含んでいると同時に、それ自身の固有のニュアンスを取り払うことができない。つまりひとが〈世界〉に対して抱いているエロス価値は千差万別であり、したがってそこから現れる「超越」も決して最終的に完全な「一致」に達することはあり得ないということが明らかである。だからそれをあえて「一致」させるには、一定の「公理」をどうしても必要とするのである

(中略)近代思想の根本的公理は、繰り返し見て来たように、すべての人間がその関係本質を実現できるような〈社会〉の条件を、最も効率的に作り出すという要請にほかならなかったと言える。思想の正しさは、それが真の世界に「一致」しているか否かではなく、この「公理」に照らしてのみ確かめうるのである。そしてこの「公理」に即して考える限り、ヘーゲルマルクスの築き上げた思想上の仕事は大きな正しさを持っていたと言わなくてはならない。

ところで、わたしたちが現代思想の難問をとおして見てきたことは、この「公理」がそれ自体に孕んでいる矛盾と背理であった。その背理とは、全く理想的な世界が求められるべきであると考える限り、その不可能性が露になり、そのことによって、かえってわたしたちは思想上の〈絶望〉に陥ることになる、ということにほかならなかった。(竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 つまり、あえて戯画的に言えば、フッサール現象学は、ある意味ではヘーゲルマルクス哲学の正しさを再確認しただけであったとさえ言い得るのであり、キルケゴールの問いかけを克服できてはいないということだ。キルケゴールは、〈実存〉には、〈真理〉には収まりきらない側面があるということを訴えていたのであった。

 ここで問題となるのは、〈実存〉と矛盾しない形での〈公理〉を導くということはそもそも可能なのか、そして、もし可能ならば、いかにしてそれは可能なのかということである。

 

 フッサール現象学の思想的意味を、近代哲学の文脈からもう一度まとめよう。

 フッサール現象学は、デカルト―カント―ヘーゲルマルクスによって探された、〈客観〉〈真理〉の探究可能性が、ニーチェによって粉々に砕かれたところに端を発する。〈客観〉がないのにも関わらず、何故、人間は〈客観〉の様な超越的秩序を模索してきたのか。これを、人間同士の〈意識〉と〈意識〉の間から説明しようとしたのが現象学であった。

 

 

 第六章 存在と意味への問い(ハイデガー

 ここで再び我々は〈実存〉の問題に立ち返らざるを得ないだろう。何故なら、フッサール的な共通理解を構築する際に、ポストモダン状況の今、無邪気に〈公理〉を唱えることは不可能だからだ。ポストモダンとは、〈社会〉が、一つの公理に従って、完全な社会に到達することはないであろうと人々が思っている時代だからである。そして、〈社会〉に還元されえない〈個人〉を見つけたのであるが、それを100年以上前から提起していたのが、キルケゴールなわけであった。

 竹田がこの章で取り上げるのは、ハイデガーだ。ハイデガーは、フッサール現象学を引き継いだうえで、「存在論」という新しい概念を導入したのである。

 

 竹田曰く、ハイデガー哲学とは、現象学の方法でもって、キルケゴール的な〈死〉の問題を取り扱った思想である。

 ハイデガーが受け継いだ現象学の方法とは、“人間の心”の捉え方を、単なる“モノ”とは異なるやり方で捉えるということである。

私たちが、“モノ”の存在を捉える時、それは既に、“対象”として捉えている。つまりそれは、人間にとって、一般的な利用可能性があるかないかという観点によって、対象が捉えられているというわけである。この様に、あらゆる“モノ”は、ある特定の“観点”から判断される。

 一方で、“人間の心”=心的存在というのは、“モノ”とは違う面がある。それは、およそあらゆる存在の中で、“人間の心”だけが、“対象化される”のみならず、ある事物を“対象化する”性質を持つということである。つまり、心とは、観点そのものを定立するのであって、その働きこそが、心を心たらしめているのだ。

 ハイデガーは、このことに徹底的に拘った。そうして生まれる問いが、「そもそもあるとは一体何か」という問いである。

 ハイデガーは前述の様な、“人間の心”の捉え方と、“モノ”の捉え方との違いに拘る。だから、心を記述する際に、モノを記述する様な秩序化の観点から語るのではなくて、それ自体が観点を定立する働きを持つような、“体験”を、ありのまま記述することを要求する。ハイデガーは、〈人間〉が〈世界〉の中に存在するという意味を、〈人間〉の観点から探求したのだ。

 

 こうしたハイデガー哲学には、二つの特色がある。

 一つは、ヘーゲルマルクス的な、近代哲学の見方を反転してしまっているということだ。普通は、事物の秩序が確固として存在していて、それを事後的に私たちが認識すると考える。しかし、ハイデガーは違う。ハイデガーは、世界の中に投げ込まれた〈個人〉という観点からスタートして、そこを起点に、新しい秩序が開示されていくと考えたのである。

 例えば、ハイデガーは、「内世界的存在」=「存在的」という言葉と、「世界内存在」=「存在論的」という言葉とを区別して考える。内世界的存在というのは、事前に存在する秩序の中に、ある主体が事後的につけ加わる形のことを言う。他方、「世界内存在」は、世界とは、われわれの〈意識〉の中に徐々に姿を開示して、やがて、確固とした客観的秩序として、〈意識〉に信じられるようになるということである。言い換えると、「世界内存在」的には、〈世界〉とは、人間の〈体験〉の中で〈開示〉されていく環境のことだと捉えられているのである。

 もう一つのハイデガー哲学の特色は、〈人間〉を取り扱う際のスタート地点である。デカルトは、考える〈私〉からスタートする。カントは、客観的秩序に向き合った〈主観〉からスタートする。一方ハイデガーは、もっと矮小な所から、つまり、もっと一般的な、日常世界の中の人間=世人という所から、哲学を開始させるのである。確固たる〈私〉が意識の上で確立されるよりも前に、人間は、世界の中に投げ込まれてしまっていて、日常生活を営んでしまっているということを重要視するのだ。

 これら二つの特色は、“神の作った世界/私”や、“唯物史観”といった、特異な前提からスタートせずに、普遍的に妥当するものから考察を始めようという、ハイデガーの意識の現れと言えるだろう。だからこそ、ポストモダン的な問題意識にも通ずる内容を、ハイデガー哲学は獲得しているのだ。

 ハイデガー哲学の現象学的方法論を明らかにしたところで、ここからは、その思索の具体的内容を記述していく。

 

 ハイデガーは、日常世界の中で、一般的に存在している人間を、世人と呼び、そんな世人について、「テイラク」(漢字変換できなかった)という表現を用いる。「テイラク」とは、世間日常の一般的な世事に取り紛れているという意味である。「テイラク」している世人は、日常世界の中で、あれが欲しい、あれが食べたいとった風に、〈世界〉を組み立てている。

 重要なのは、ハイデガー曰く、人間は普通、生活上のそうした雑多な関心から、自分というものの性質を理解しているということである。デカルト的な、確固たる〈私〉からスタートして、〈世界〉を理解するということとは、全く逆の現象がここでは起きている。

 そして、こうした「テイラク」の状態は、キルケゴールの「有限性の絶望」と類似的と言うことが出来る。というのも、人間が日常の世界に没頭して自分を忘れようとしているのは、ある意味では、ニヒリズム的絶望からきているからだ。

 つまり、次のようなことである。物心つき始めた頃は、人間はだれしも素直に、〈社会〉とか〈世界〉といった、自分を超える大きなものを素朴に信じているものである。しかし、〈死〉という絶望的現実が何度も頭をよぎる中で、〈社会〉への確信は放棄されていく。〈社会〉や〈世界〉といった、永遠的な存在がもしあったとしても、それが、すぐに死んでしまう〈私〉にとって、一体どんな関係があるというのか。テイラクした世人は、日常世界に没頭していくことで、こうした、「有限性の絶望」から目を背けようとしているのである。

 

 ハイデガーは、世人分析の次に、死の実存論的分析を行う。しかし、それに踏み込む前に、議論を分かりやすくする為にも、キルケゴール的〈個人〉派と、ヘーゲルマルクス的〈社会〉派との対立を、もう一度確認しておこう。

 〈個人〉派においては、個人が持つ死の絶望から思索が始まる。確かに、絶望を乗り越えるために、〈神〉、或いはそれと類比し得る、〈真理〉〈社会〉〈世界〉を信じるということはある。しかし、それは言うなれば、超越的なものが徹底的に信じられないという絶望に陥るからこそ、”あえて”、”逆に”、徹底的にそういうものを信じようとしているということである。〈社会〉派は、〈社会〉というものを素直に信じてしまっている。要するに、個人が持つ絶望というものが視野に入っていないというのが、〈個人〉派がする〈社会〉派批判の要旨だ。

 一方、〈社会〉派は、〈個人〉派の人間が、未来を信じず、死によってどうせ潰えてしまう”今”に固執してしまうことを批判する。それによって絶望から逃れようとするのは、一種の賭けにすぎないのではないか。

 ハイデガーが行う、死の実存論的分析は、まさしくこの〈死〉の絶望と、それに対する一種の賭けに関する考察なのだ。

 

 人間にとって、〈死〉とは常に、体験できない可能性であり、具体的には、現存在することが最早できなくなってしまうという可能性として知覚される。こうした恐ろしい可能性に対して、人間はそれを隠蔽しようとする。しかし、抑圧された「死の可能性」は、その実、つねに頭をもたげており、それが、「不安の気分」として表れるのである。

 世人が死を隠蔽しようとする一方、ハイデガーは、死を「現存在に最も固有な可能性」と表現する。これは一体どういうことか。

 〈死〉を隠蔽することで、人間は、世人としての慣習、文化、世界を創り出す。世人が抱える可能性は、何かを飲みうる、お金持ちになり得るといった可能性で、他人との交換可能性を持ってしまった可能性である。

 しかし、〈死〉だけは異なる。〈死〉は、他人と交換できない固有の可能性として存在している。だからこそ、〈死〉を自覚し、〈死〉を、いつでも選びうる自分だけの可能性と把握して、〈死への自由〉を持たなければならない。そうすることで、人間は、世人的存在から解放されることができると、ハイデガーは言う。

 しかし、「世人的存在から解放される」とは一体何か。

 ハイデガー曰く、自由に生きているという生の感覚は、人間が持つ、様々な生の可能性によって得られる感覚である。しかし、死を隠蔽する世人的存在は、自分の存在可能性を著しく狭めてしまっている。これに対して、死に直面して、死に先駆し、〈死への自由〉として、死をも選び取ることが出来たならば、その時、自分の存在の“全体性”が実現されると、ハイデガーは考えるのだ。

 しかし、ここでさらなる疑問が湧く。死に直面し、存在の“全体性”とやらを生きることができたとして、その時、具体的には、一体どういう生き方ができるようになるのか。ハイデガー曰く、それは、「良心の呼び声」がやってくる生き方である。では、「良心の呼び声」とは一体何か。

 竹田はここで、「良心」を「倫理的なるもの」と言い換えて、それが一体何であるかを解説する。

 キリスト教的、或いは、カント的な倫理は、超越的な外部からの命令である。これを、「弱者道徳」として批判したのがニーチェであったが、ハイデガー的「良心」も、ニーチェとは違った形で、抑圧的な倫理に反対していたのではないだろうか。

 

「死への先駆」とは、人間のこういった日常的なあり方から解き放つわけだから、そこでの「良心」とは、〈社会〉や〈他人〉のほうから命令として現れるような〈倫理的なもの〉を解き放つものになる。では、そういうものを全てとり払ったあとで人間に残るものはなんだろうか。たとえば、ここでの「良心」を、“端的なよきもの”に向かおうとするような人間の欲望のありようととってみればどうだろうか。

ハイデガーによれば、「死への先駆」あるいはその「決意性」は、人間の存在可能性(あり得ること)のいわば極限を示すのだが、これを論理的に表現すれば、およそ「よいもの」に対する欲望の極限が「良心」という言葉で表されていると考えることができる。もちろんここでの「よいもの」とは、単に規範や命令としての「倫理」ではなく、素晴らしいもの、美しいもの、豊かなもの、およそ人間の心を魅惑するものと考えた方がいい。(竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 竹田は、ハイデガー的「良心の呼び声」を、素晴らしいもの、美しいもの、豊かなものに向かって、人間の意識が発する根源的な欲望のことなのではないかとする。言うなれば、ニーチェが、人間の〈意識〉を排除して、「力への意志」という仮説を唱えたのに対して、ハイデガーは、逆に、人間の〈意識〉に徹底的に拘りつくすことで、抑圧的な倫理を生む近代哲学と対決しようとしていたのではないか。

 

 私たちはこうして、反―ヘーゲル的近代哲学の流れを追ってきた。総じて、真なるもの、理想的なるものへ、理性によって到達することの不可能性に直面したニヒリズムの中で、“それにも関わらず”、人間がいかに強く生き得るのかということを思索していた。それで、ニーチェは〈超人〉を、ハイデガーは〈本来的なありうること〉を構想したわけである。

 しかし、そうした構想も結局、私たちの日常世界から乖離したところにある感じを拭えない。人間の可能性、或いは欲望とは、そもそも一体どういうことなのか。それこそが、〈社会〉と〈個人〉の関係を模索し続けた近代―現代思想の最後の問いであるとした竹田は、次章、バタイユを援用しながら、持論を展開していくことになる。