教養強化 竹田青嗣 『現代思想の冒険』 まとめ① ポストモダン社会と現代思想

 竹田青嗣現代思想の冒険』を読んだ。

 この本は現代思想の入門書である。嘘みたいに難解な現代思想を、初学者にも分かりやすい形で解説してくれている。しかし如何せん、内容を詰め込みすぎていて、取り上げる思想家が余りにも多い。読むのだけで十時間くらいかかった。

 『現代思想の冒険』は、最初に現代思想の置かれた状況を概観し、その後、そうした事情に思想がどの様に応答してきたのかということを、思想家を大量に列挙しながら述べていく。最後に、それらを踏まえたうえで、ポストモダン状況に独自に応答しようとした、“竹田的哲学”が語られる。

 竹田が少し触れただけの思想についても、出来るだけ細かく拾っていく。想像で勝手に補う部分もあるので、不正確な内容も記述することになるだろう。それでも、自分が読み返したときに、大体の外観として、現代思想のあらましが分かる(気になるような)文章にするつもりである。

 

取りあえず第一章と第二章をまとめた。それ以降もいつかまとめる。

 

 

 

  • 思想の現在をどう捉えるか

 

 この章では、現代思想がどの様な社会状況の中で、どの様な問題意識を抱えているのかということが語られる。いうなれば、第二章以降の前提となる議論が為されるわけだ。

 現代思想を語るうえで欠かせないのが、20世紀、世界を席巻したマルクス主義が崩壊してしまったことである。それは、マルクス主義の理論としての矛盾が見つかったということよりも寧ろ、一般大衆含めて共有されていたマルクス主義の“リアリティ”が、20世紀後半に失われていくということであった。リアリティが喪失してしまったが故に、理論の矛盾がどこにあったのかが模索されるわけで、その逆ではない。

 そもそも、マルクス主義がリアリティを持った20世紀前半は、帝国主義の時代であった。何故か繰り返される大規模な戦争に、何故か困窮を極めていく日常生活。こうした事象を、説得的な理屈で結び合わせて、かつそこから克服する方法を明示したのが、他ならぬマルクス主義だったのだ。

 

 では、何故マルクス主義のリアリティは失われていったのか。その理由は、大雑把に分類すると二つに分けられる。

 一つは、マルクス主義を語る(騙る)陣営の腐敗である。50年代のスターリン批判に始まり、プラハの春、中国ベトナム戦争、アフガン侵略戦争、etc……。社会主義国家は、自らの独裁制=反社会主義性を明らかにしてしまったのである。

 “国”だけでなく、“運動”にしても同様である。日本においては、50年代半ばにおける六全協から始まったマルクス主義学生運動の混乱は、遂に連合赤軍に帰着していくわけである。山荘内で同志を殺し合うことの、一体どこが社会主義なのだろうか?マルクス主義陣営は、自ら瓦解していったのだ。

 もう一つの理由は、資本主義陣営の修正だ。20世紀初頭は、“階級対立の非和解性”という概念は、プロレタリアートの衣食住における絶対的貧困を、説得的に説明するものであった。しかし、次第に衣食住の問題は改善されて行き、加えて、ボードリヤール的な消費社会のイメージの中で、人々は欲望の充足さえ始めたのだ。つまり、ブルジョアジーは、かつてはプロレタリアートを生産の面から搾取するのみであったが、次第に消費の面から欲望を提供し始めることで、自らに抵抗する主体を骨抜きにしていったのだ。

 

 こうして、マルクス主義のリアリティは失われた。マルクス主義“以降”の新たな思想が何なのかを模索するということが、現代思想に要請されている任務なのである。

 

まず社会の構造を正しく認識し、理性によってその体制を変革していくという、マルクス主義の理念の核心を残すか否か。もしマルクス主義のこの核心を捨てるとすれば、近代を通じて思想が果たしてきた、社会批判、現実批判の文脈を、どのようなかたちで立て直すか。またこの社会批判、現実批判という機能すら不可能であるとすれば、思想にとってなにが残るか。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 ポストモダンとは、思想という営みそのものの基盤が完全に失われてしまったような、思想の廃墟である。この廃墟から、現代思想の冒険が始まるのだ。

 

 

 

 竹田は、現代思想の源流として、ソシュールニーチェを挙げる。まずは、ソシュールの思想から、それに影響を受けた思想家までが紹介されていく。

 

ソシュール

 ソシュールの思想は、それまでの言語学の方式を破壊してしまった。ソシュール言語学の枠組みは、次の三つによって規定される。

 

A、シニフィアン(記号表現)―シニフィエ(記号内容)

B、ラング(言語規則)―パロール(個々の発語)

C、共時態―通時態

 

 Aについて。

 シニフィアンシニフィエの枠組みは、“言語の恣意性”を暴露した。“恣意性”には二つの意味がある。

 一つは、シニフィアンシニフィエのタテの結びつきの恣意性だ。例えば、“馬”のシニフィエについて、それに対応するシニフィアンは、“馬”でもいいし、“horse”でもいいし、“cheval”(仏語)でもいいわけだ。ある一つの記号内容について、どの様な記号表現が結びつけられるかということは、恣意的に決まっていくということである。

 もう一つの恣意性、そして、こっちの方が重要な恣意性なのだが、それは、複数のシニフィアンシニフィエの組み合わせの関係性における、ヨコの関係の結びつきの恣意性だ。

例えば、昔、日本には、犬、野犬、山犬、狼といった、シニフィアンシニフィエの四つの組み合わせが、相互に隣り合って存在していた。一方、現代では、山犬のシニフィアンシニフィエは消失してしまった。しかし、その領域自体が消失したのではない。山犬と記号されていたものは、野犬、狼と記号されるようになっただけである。この事例が示唆することはつまり、ある事象について、それをどう区別するのかは、恣意的に決定されていくということだ。

 Aによって起こったパラダイムシフトは、“実在論から関係論へ”と表現することが出来るだろう。つまり、事物の秩序は、客観的に予め存在しているのではなく、カオスに投げ込まれた主体が恣意的に生み出していくものにすぎないということが暴露されたのだ。

 

 B=ラング/パロールと、C=共時態/通時態について。

 ソシュールがBについて言及するのは、ラング/パロールの関係を、静的なものから動的なものに変更する為だ。

ラング=文法が存在し、その規制に則った形でパロール=個々の発語がなされる。これが通常の理解だ。しかし、現実には、この様な現象と同時に、ラングの規制を逸脱するパロールが生産され続けており、そうした逸脱していくパロールを包摂する形で、新しいラングが形づくられていくということがある。

 この時、共時態/通時態という区別が意味を持ち始める。

共時態とは、ある対象においてその一瞬を切り取って、その瞬間の様相を明らかにすることだが、通時態とは、ある対象の、時を経て変遷していく過程そのものを読み取ろうとすることである。これまで、静的に捉えられてきたラング/パロールは、実は、動的に変化していっているのであって、それを無理矢理共時的に捉えようとしていたにすぎない。静的な見方が無意味な訳ではないが、それだけでは言語の変遷のダイナミズムを捉えられなくる。ダイナミズムを捉えるには、どうしても通時的な見方が必要なのだ。

 

 総じて、ソシュールは、人間が認識する秩序は、そのまま世界の客観的な秩序などでは断じてないということを暴いていったと言うことができるだろう。恣意的な認識だからこそ、認識される世界は言語体系によって余りにも異なってくるし、かつ、時代に応じても変化していくものなのだ。

 ソシュール言語学に影響を受けた思想として、竹田は、構造主義を挙げる。その中でも、レヴィストロースとラカンの思想を取り上げていく。

 

②レヴィストロース

 レヴィストロースは、普段意識されていない関係性や構造を取り上げた。そうすることで、意識される秩序の違いを超えた、人間の、共同的な無意識の普遍的“構造”を探求したのである。

 この考えは、マルクス主義を相対化する。マルクス主義は、人間の社会について、下部構造が上部構造を決定していくという風に捉える。一方レヴィストロースは、下部構造と上部構造の間には、無意識化された目に見えない“構造”があるのではないかとして、これが上部構造に、引いては社会全体に影響を与えているのではないかとしたのであった。

 

ラカン

 ラカンも似た考え方をする。動物は、生理―本能―意識と、なだらかに連続する構造を持っているが故に、欲望の方向が予め決定されている。一方、人間は本能が壊れているから、自己のエネルギーをどこへ向けるか分からない様な状態に身を置かされる(想像界)。これを家族関係という秩序の中に方向づけてゆき、それが社会的な言葉の秩序(象徴界)を織り上げる。意識された欲望の動機は、想像界象徴界という無意識の構造によって規定されていて、それによって社会的関係が形成されると考えたのだ(?自信ナシ。)。

 

 ラカンもレヴィストロースも、下部構造と上部構造、或いは個人と社会という、目に見える二項対立に見出される、無意識の構造について考えた。そしてこれは、“意識”を徹底的に問題化する、ヘーゲルマルクス主義、或いは現象学を批判するものなのである。

 構造主義は、現代思想の関心を、人間の無意識の構造に向けさせた。しかしこれは同時に、そもそもどうすれば人間の無意識にアクセスできるのかという難問も残したのだ。

 

ロラン・バルト

 ソシュール的な言語論を、社会が持つ文化的関係の“意味作用の体系”として捉えなおしたのが、ロラン・バルト記号論であった。この時に出てくる概念が、“デノテーションコノテーション”である。この概念は、シニフィエを更に二つに区分する概念だ。

 例えば、「エキゾチックジャパン」という広告文句を見たとする。その時、このシニフィアンに対応するシニフィエは、明示的な形では、“東洋的な日本”というだけに過ぎない。この明示が、“デノテーション”だ。一方、このシニフィアンは、“日本は素晴らしい国だ”という暗示的なシニフィエをも示唆しており、この暗示が、“コノテーション”だ。

 こうした記号論の発想は、文化の様々な様相を、どこからでも記号論的に意味を分析できるという汎用性を持つ。マルクス主義的な、上部構造―下部構造という、二つの軸だけでは捉えられない、“神話的構造”を、発見し、かつ分析する時に、記号論の発想は有用なのだ。

 

 ソシュール以降の構造主義記号論の展開を追いかけてきた。しかし、これらの手法は、一つのパラドックスに衝突してしまう。

 ソシュール的言語論は、“実在論から関係論へ”というパラダイムシフトを起こした。以降、思想において意識される主題は、客観的秩序そのものというよりも、人間が構築する“意味の体系”の関係性に移行するわけである。しかし、構築された関係性の体系を変更し続ける動力それ自体は一体何なのかという問題は、いくら意味の体系を考察しても永遠に分からないのである。

例えば、既定のラングを逸脱するパロールが、“どこからか”、常に生成し、それらは、“どのようにしてか”、新しいラングを形成していくわけである。この、“どこからか”、“どのようにしてか”の問題は、ある瞬間のラングを共時的に取り上げるだけでは、絶対に解決できない問題なのだ。

これは、即ち、“構造”を正確に認識することそれ自体に向けられた懐疑である。その懐疑をはるか前から主題化していたのがニーチェであり、ニーチェを源泉に、ポスト構造主義が構築されていくのである。

 

ニーチェ

 ニーチェの主張を端的に表現するならば、それは、“近代哲学/形而上学への徹底的なアンチテーゼ”ということになるだろう。

 ニーチェは、キリスト教や道徳思想の起源に、弱者が現実の惨めさをごまかそうとする“ルサンチマン”を見る。このルサンチマンによって、自分を惨めさに陥れるこの現実の世界は、実は、“仮象の世界”であって、その背後に、“真の世界”が存在すると想定される様になる。加えて、“真の世界”を認識する、“客観的認識”、“普遍的認識”をも、同時に想定させるわけである。

 しかし、これらの想定は端的に誤解である。何故なら、どんな観点も客観にはなり得ず、全ては一つの“解釈”にすぎないのだから。

 こうした誤った想定は、その極限に至った時に、自身の矛盾に気づいてしまう。つまり、真理や客観など決して存在せず、超越的な存在などまやかしに過ぎないというニヒリズムに陥ってしまうのだ。

 一度陥ったニヒリズムを克服するのはそう簡単ではない。それでも克服したいのならば、寧ろニヒリズムを徹底させることによって、“真理”を探そうとする近代哲学とは異なった発想を生み出さなければならないのだ。それはつまり、客観的秩序を発見するのではなく、新たな秩序を創り出すということである。

 

 こうしたニーチェの考えは、ヘーゲルマルクス主義が、又、構造主義さえもが陥った、世界の普遍的構造を発見しようとする態度そのものを、根本から批判するものであった。

 ニーチェの思想は、ポスト構造主義に多大な影響を与える。例えば、フーコーは、歴史というものが常に権力によって構築されていくということを綿密な実証的研究によって暴露したのである。ジャック・デリダの“脱=構築”も、この文脈の上に存在する作業だ。

 

デリダ

 “脱=構築”とは何か。

 

それは、ひとりの思想家のテクストから一義的な意味だけを読み取らないで、むしろその背後にそれと対立する様なもうひとつの意味を見出し、後者によって前者を相対化してゆくという方法である。この方法が一般的に“脱=構築”と呼ばれているものだ。

(中略)デリダがこの「脱=構築」を通じて言おうとするのは、最終的に、言葉による厳密な認識の不可能性ということにほかならない。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 

 デリダは、“ありのまま”という起源を否定する。

普通、ある事物の“ありのまま”は、言葉という記号で指し示されるものだと考える。これは、事物の“ありのまま”の秩序が予め存在しているという前提に従った考えだ。しかし、その前提が誤っていて、実際は、“ありのまま”の内容は、記号によって、その性格が初めて規定されていくのである。

 デリダは、ソシュールをも批判する。ソシュールは、パロール=個々の発話について考えていたわけであるが、デリダはこれを音声中心主義と批判する。デリダは、言語学における主題を、パロール話し言葉から、エクリチュール=書き言葉に移し替えようとするのである。

 音声中心主義においては、“ありのまま”の〈意味〉は、「話すこと」で、ぴったりと一致した形で示される。その「話すこと」は、これ又ぴったりと一致した形で、「書くこと」に写し取られる。〈意味〉(「言わんとすること」)=「話すこと」=「書くこと」という三つが、連続的に一致するわけだ。

 デリダはしかし、この“一致”を否定する。特に、「話すこと」と「書くこと」の間には、大きすぎる断絶が存在するというのだ。

 例えば、『あの空は青い』がパロールとして発話されるときについて考えてみよう。この時、“発話者が感じている空の青さ”=「言わんとすること」を、パロールは表していると言えたとする。しかし、もしそうだとしても、『あの空は青い』というパロールが、“あの空は青い”というエクリチュールに書き換えられると、誰もが発し得る一般的な言語記号の配列に成り下がってしまう。従って、両者の連続性は切断され、同時に、「書くこと」=エクリチュールは、〈意味〉から切断されてしまうのだ。

 〈意味〉の再現であることを辞めたエクリチュールは、ただ単に差異の体系の一部となり、「超越論的な〈意味〉されるもの」を持たなくなる。こうして、外部を持たない差異の体系の中での、「戯れ」が生じるのだ。(ついでに記せば、「差延」も、ただただ差異しか存在しなくなる世界を表す概念ということで、強い関連がある概念だ。)

 

 デリダが言わんとしたことは、一体何なのか。竹田曰く、それは、〈現実〉/〈世界〉というものは、絶対に言葉によって捉えつくすことは出来ず、既成の言葉の体系を乗り越える形で、常に〈現実〉/〈世界〉の新しい相が現れ続けるということである。現実のありのままの〈意味〉と、〈言葉〉とを切断することで、形而上学に死刑を言い渡したのだ。

 デリダ的な認識批判が重要なのは、マルクス主義の硬化した決定論や、党派的倫理主義の側面を、“脱=構築”してきたということである。

 しかし、だからといって、何でもかんでも闇雲に、“脱=構築”していけばいいというものではない。そうなれば結局、「世界に関しては何とでも言えるのだから、様々な風に言ってみることが面白い」という、悪しき相対主義ニヒリズムに陥るだけだ。

 言葉が世界を写し取れないとしても、それが必ずしも、〈世界像〉を編むことの無意味さに直結するわけではない。言葉の世界を編むことの役割というのは、それが真理であるということよりかは寧ろ、それが、美、エロスを形作り、引いては世界に対する欲望を喚起するということにこそ求めるべきではないのか。 

 しかし、竹田はその考察を後回しにして、取りあえずは、マルクス主義以降の社会認識として、ボードリヤールドゥルーズ=ガタリの紹介に移行する。

 

ボードリヤール

 ボードリヤールは、マルクス主義の世界認識の土台となった。“経済学”を批判する。

 ボードリヤールの前提は、マルクスが言う様な、資本主義の決定的な破綻が訪れそうもないという現実であった。そうであるならば、資本/労働、或いは、価値/使用価値等等は、何ら社会的関係の実体を映したものではなく、資本の運動を表象する記号にすぎないのではないか。

 実体が消失してしまって、全てがコピーのコピーのコピーのコピーにすぎなくなってしまう社会を、ボードリヤールシミュラークルと名付けたわけである。

マルクス主義は、プロレタリアが、“本当の欲望”に目覚めて、システムを乗り越える革命の主体になることを期待したわけであったが、それは起こりようもないことである。何故なら、“本当の欲望”など存在せず、存在するのは、閉じた円環の中で提供される、コピーのコピーのコピーのコピーとしての欲望だけだからだ。シミュラークルとは、閉じた円環の中で、実体が消失する社会のことだ。

 こうした閉じた円環を乗り越えるために、ボードリヤールは、システムから贈与される「延期された死」を拒絶することを提案する。そして、〈死〉をつかみ取るのだ。システムの内部の変革ではなく、システムそれ自体の秩序を切り裂くような挑戦をしなければならない。(良く分からない)

 これだけではどうも分かりづらい。ここで竹田は、ドゥルーズ=ガタリ現代社会分析を導入する。

 

ドゥルーズ=ガタリ

 ドゥルーズ=ガタリも、ボードリヤール的な閉じられたシステムを前提として、社会の総体を自動的な“機械”と見なして、これを、「社会機械」と名付ける。

 しかし、ドゥルーズは、システムの動力のことを、「欲望」として想定する。これは、ボードリヤールと対照的である。というのも、ボードリヤールにとっては、欲望も、シミュラークルの中で再生産される記号の一種に過ぎないのに対して、ドゥルーズは、欲望を実体的に扱うからだ。

 更に細かく、ドゥルーズは、「力への意志」と類比的な、動力としての欲望を、そのまま「欲望」と名付ける。対して、ボードリヤール的な、一種の記号として再生産される欲望を、「欲求」と名付けて区別するのだ。

「欲望」には、二つの流れが存在する。「欲求」に変化する流れ、即ち、単なる記号の中に閉鎖していく流れを持つ一方で、同時に、そんな閉鎖から逃れて散逸しようとする流れを併せ持つ。

この、複雑な「欲望」の概念を基にして、ドゥルーズは、社会制度の歴史を次のように三つに大別する。

 

A、古代国家―コード化社会

B、専制主義国家―超コード化社会

C、資本主義国家―脱コード化社会

 

Aにおいて、「欲望」は、近親相姦の禁止という規則によって、コード化されていく。しかし、専制主義機械は、Aにおけるコードを破壊して、全てのコードを帝国へと組織していくのである。

Aの社会にしろ、Bの社会にしろ、欲望は常に、コードから散逸していく流れを持つ。そんな、「脱コード性」そのものをシステムに組み込んでいくのが、C、つまり資本主義国家なのだ。しかし、欲望が完全に脱コード化されてしまえば、資本主義システムは自壊していく。ドゥルーズはそこで、「社会公理系」という、全く新しい概念を導入する。それは、工学的、化学的な体系を持つものだ。コードを散逸する脱コード的欲望も、この、公理系によって調整されていくことで、結局は資本主義に組み込まれていくのである。(意味不明である。)

 

 こうした構想は、社会主義構想を批判する。つまり、AからBの移行の様に、新しい人為的なコードを準備するだけでは資本主義を乗り越えることは出来ないということだ。言い換えると、資本主義における欲望の対立は、〈コード化/脱コード化〉から、〈脱コード化/公理系〉という対立に移行したということである。(全く意味が分からない)

 更に簡潔に言い換える。古代国家、専制主義国家においては、ひとびとの欲望は、神話、共同体の掟、王の権力によって抑圧されてきた。しかし、資本主義国家においては、人間の欲望それ自体が、〈社会〉を公理系として目的化してしまっている。人間の欲望に、社会を超え出る契機が消失してしまったのだ。(ワカラナイ…)

 

 

ソシュールから、デリダ的認識批判、それに、ドゥルーズの新しい社会認識まで、幅広い対象を扱ってきたが、一体、ポストモダンとは、総じて何を示唆するのか。それは、〈社会〉は閉鎖的なシステムになってゆき、人間はそこで意味を失って、単なる個体になるだろうということである。

竹田は、ポストモダン思想の特徴として、次のように語る。

 

第一にそれは懐疑論(もはや世界を手に触れるものとしては決してつかめない)であり、第二にニヒリズム(人間は意味を失う)であり、そして第三に、一番最後に残るものとしての反社会的心情である。  (竹田青嗣 『現代思想の冒険』)

 

 この最後の、反社会的“心情”とは何か。

 それは、ボードリヤール的には〈死〉によって、ドゥルーズ的には〈狂気〉によって、社会から個人として離脱するしかないということである。“心情”は、共同性を形作れないのだ。現代のニヒリズムとは、ここまでに深刻なものになってしまった。

 

 

現代思想の冒険〉によって、如何なる問題が浮かび上がってきたのだろうか。

 第一には、社会批判というものの不可能性である。ボードリヤールドゥルーズは、ある意味でヘーゲルマルクス的な、“世界を認識する”という仕事をした。しかし、その仕事によって主張されることは、見事なまでに対照的だ。ヘーゲルマルクスは、“認識によって世界を超えられる”としたのに対して、ボードリヤールドゥルーズは、“認識はシステムを超えられない”という結論に陥った。

 第二に、マルクス主義につきつけた刃は、諸刃の剣として、現代思想含めた思想という営みそのものにもつきつけられてしまったということだ。つまり、思想による社会批判は不可能か、それとも可能かということである。戯画的に言えば、不可能の立場を取るのがデリダで、可能の立場に立つのがボードリヤールドゥルーズということだろう(しかし、その“可能”は、「狂気」や「死」によるものなのだが……)。

 

 現代思想が衝突した難問は、これ以上無闇に“冒険”を続けても、解決されることはないだろう。竹田はここで、そもそもの近代思想の捉え返しを図るのであった。