外山恒一主催 第十四回「教養強化合宿」 7000字レポート

 

革命家・外山恒一さん主催の教養強化合宿というものがある。

 

 

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 サイトにあるように、衣食住に関しては全て無料、参加者が負担するのは交通費だけ。それでいて、“九時五時”で、マルクス主義、左翼運動史、そしてポストモダン思想を、外山さんが学生に直接、“外部注入”してくれるという夢の様な合宿である。

 自分は昨日まで、第十四回目となる教養強化合宿に参加してきたので、その感想を残しておきたいと思う。

 予め言っておくと、この記事は、外山合宿はメッチャ良いので、学生は皆行った方が良いということを長々と書くだけである。

 又、14期の参加者の中で自分は、「外山恒一」への偏りが圧倒的に一番強く、昨日まで合宿に参加していた故に合宿の余熱が残っているということも相まって、これまでのどのレポートよりも、偏ったレポートになってしまうと思う。しかし、教養強化合宿自体は、非常に中立的で客観的なものだ。幅広い人が参加して満足できるようなものであり、又、参加者の多くがそういう中立的な立場で学ぶものであった。だから、その辺の偏りは差し引いて欲しく思う。

 

 

 

 

 ①講義について

 教養強化合宿のメインは、講義である。指定されたテキストを、一章ごとに黙読。参加者全員が読了次第、外山さんがテキストの内容に沿った詳細な解説を加えて、分からない部分があれば適宜質問していくというものである。これを”9時5時”で只管八日間繰り返すという、非常にハードなものであった。

 読むテキストは四つで、一日目には外山さんが独自で作成した『マルクス主義入門』を、二日目から四日目には、立花隆『中核vs革マル』を、五日目、六日目には、笠井潔ユートピアの冒険』を、七日目、八日目には、スガ秀美『1968年』を読んだ。

 

 テキストの一冊目は、『マルクス主義入門』である。

 ここでは、大航海、フランス革命、パリコミューンといった歴史的事件から、古代ギリシア哲学、ドイツ観念論ヘーゲルといった思想的トピックまで用いて、マルクス主義がどの様な経緯で成立したのかをまず説明する。次に、『共産党宣言』を主に引用しながら、マルクス主義の内実を説明した後は、それがどの様にロシア革命に帰結していくのかを、ナロードニキ運動、レーニン主義などを用いて説明する。『マルクス主義入門』と銘打たれてこそいるが、扱っているテーマは幅広く、近代の社会運動、社会思想の入門とも言えるようなテキストである。

 外山さんの文章は、学者的な“隠語”が少なく、比較的平易で、無学な自分にも分かりやすかった。個人的には、マルクス主義と直接の関係性はないが、ブランキとネチャーエフの、「革命家」としての性格に衝撃を受けた。

 

 二冊目は、立花隆『中核vs革マル』である。

 中核、革マル、或いは、「全共闘」や「全学連」といった言葉でさえ、巷では、“古臭い過激派左翼”として一緒くたに語られる。しかし、その内実は全然違う。『中核vs革マル』では、題名の通り、中核派革マル派の成立と、両派の抗争を中心に語られる。一節を参加者が読み終わるごとに、外山さんのテキストの内容の解説に加え、中核派とも革マル派とも、理念としては実は敵対している全共闘運動や、その他政治運動の展開、世界各地での主だった政治的事件/運動についての補足が入る。

 ここでは、只管、“量”に圧倒される。立花隆の記述の詳細さも相当なものなのだが、何と言っても、それを解説、補足する外山さんの講義の情報量が凄すぎる。日本史の授業では絶対に聞かない様な単語が大量に飛び交う一方、逆に誰もが知っている様な大きな事件が突然出てきて、それらが総体として、一つの大きな関係性を形作っていく。外山さんはこの合宿を“詰め込み教育”と称しているが、『中核vs革マル』はまさしく“詰め込み”であった。

 

 三冊目は、笠井潔ユートピアの冒険』である。

 二冊目の『中核vs革マル』のジャーナリズムから打って変わって、三冊目の『ユートピアの冒険』では、ソ連の失敗、日本左翼運動の陰惨な展開を受けての、非常に思弁的な考察がなされる。当時、“マルクス葬送派”として知られた笠井は、マルクス主義思想における三つの源泉、即ち哲学・経済学・政治/歴史観の批判として、それぞれグリュックスマン、ボードリヤールドゥルーズガタリポストモダン思想を解説する。

 こうした西洋のポストモダン思想は、旧態依然としたマルクス・レーニン主義を批判すると同時に、フランスでの五月革命に代表される、68年の新しい特殊な政治運動の経験を肯定する為に出てきたものであった。しかし、日本では、そうした政治性を欠いた、無責任で軽薄な文脈で導入されてしまったことを笠井は批判する。最後に、マルクス主義に依らない革命肯定の思想として、笠井潔独自のブランキ的な「ユートピア的叛乱」の構想が語られる。

 笠井潔の著作は全体的に非常に難解であるが、この『ユートピアの冒険』は、他の著作に比べると、かなり平易に書かれている。グリュックスマン、ボードリヤールドゥルーズガタリといったポストモダン思想を、その政治性から解説してくれる為、ポストモダン思想の入門書として、或いは、笠井潔思想の入門書としても、非常に興味深く読めた(それでも難解だが)。

 

 四冊目はスガ秀美『1968年』である。

 『中核vs革マル』が対象の描写に偏った“ジャーナリズム”であり、『ユートピアの冒険』が思想、観点の記述に偏った“哲学書”であったとすれば、『1968年』は、日本の1968年の経験を対象として、それを明確かつユニークな思想、観点でもって記述した、“批評書”であった。スガ秀美自身が立脚する思想の難解さに加えて、取り上げる対象が余りに膨大でかつ細かいため、個人的には最も難解な本と感じた。不正確を承知で乱暴に要約すれば、「“1968年”の全共闘は、一見敗北したかのように見える。しかし、その精神性は、大学当局、アカデミズム、或いは資本によって取り込まれ、その結果として、抑圧的なポリコレと自己責任論が声高に叫ばれる(ネオ)リベラリズムが生まれて来た。」ということであったと思う。

 スガ秀美の文章は、何度もチャレンジしようとしたのだが、無学な自分はいつも30ページ程で挫折してしまっていた。今回は、それまで六日目までに詰め込まれた教養と、外山さんの丁寧な解説でもって、自分一人で読もうとしていた頃よりは、大分理解できた(ような気がする)。

 

 講義全体を通して感じたこととして、まず非常にシンプルに、外山さんがよく語る、政治/思想/文化の三位一体の重要性というものを強く感じた。現代日本では、バカウヨ御用達か、或いは「政治的に正しい」ことが保証された様なものでなければ、政治的な本は読まれない。一方、思想/文化では、そうした単純化した政治性からは乖離した、複雑で難解すぎる隠語が飛び交っている。今回の合宿では、それら三つは一体のものとして語られており、そうすることで、それぞれの事象についてより深く、かつ平易に理解できた。

 加えて、外山さんが指定した、テキストの“順番”に、明確な意図を感じた。

 まずは、『マルクス主義入門』で、マルクス主義の体系性と、ブランキ、ネチャーエフの“カッコよさ”に惹かれて、革命というものを素朴に肯定したくなる。

 次の『中核vs革マル』では、余りにも陰惨な内ゲバが描かれる。しかし、『マルクス主義入門』に照らし合わせれば、日本の特殊な社会状況の中で、マルクス・レーニン主義を律義に応用すると、内ゲバは必然である。僕はここで、マルクス・レーニン主義を肯定するならば、内ゲバ、その他抑圧さえも、市民社会的な論理では絶対に許容しがたいが、認めるしかないのか。それとも、マルクス・レーニン主義を否定し、その先で“政治”それ自体を否定して、市民社会的な合法性の中での遊戯を肯定するしかないのかという、二つの選択肢のことを考えていた(後者を選択したのが、無政治的“ニューアカ”ムーブメントだったのではないか。)。

  しかし、『ユートピアの冒険』では、マルクス・レーニン主義を否定した上での、“政治”肯定が語られる。大雑把に言えば、反乱とは、特定のユートピアへと至る手段なのではなく、反乱それ自体の過程にユートピアが存在するということであった。こうした主張から、笠井はマルクス主義者を以下の様に批判する。

 

フランス革命は、たとえばブルジョア革命だといわれる。だが、そのような観点そのものが、革命の実質であり身体性であるところの現実を空想的に無視しているんだよ。大革命を実行したのは、昨日の絶対王政からも明日のブルジョア体制からも疎外された都市貧民の大群なんだ。  (笠井潔 『ユートピアの冒険』 )

 

 個人的に言い換えると、これは、革命の主体の問題である。マルクス主義者にとっての「プロレタリアート」、右翼にとっての「愛国日本人」の様に、政治思想にはそれぞれ、内容に応じた革命の主体が想定され、又、革命の主体によって、“歴史は進歩”するものだとされる。ポストモダンでは、革命の主体という発想そのものが否定され、そのことで、革命、或いは政治という概念も縮小される。そうして、”歴史の終わり”が訪れる。

 しかし、笠井は、「革命の主体は革命である」という、ある種のトートロジーでもって、この閉塞を打開しようとする。

 笠井の小説、『バイバイ、エンジェル』で、主人公は、次のように語る。

 

そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、灼熱の太陽を、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように深く味わい尽くすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、恐れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。

叛乱は敗北する。秩序は回復される。しかし、叛乱は常にある。秩序は叛乱によってふたたび瓦解するのだ。永続する敗北それ自体が勝利だ。三日間の真実を生きつくす百世代の試みの後に、そうだ、いつか強い眼を持った子供たちが生まれてくるようになる。そうして彼らは、太陽を凝視して飽くことを知らず、僕たちの知らない永遠の光の世界に歩み入っていくことだろう。  (笠井潔 『バイバイ、エンジェル』

 

 どれほど社会が抑圧を深めようと、必ず自主的な形での人民蜂起は絶え間なく発生し、それこそが政治の希望なのだと笠井は説くのだ。いうなれば、笠井は、独断的な批評の言葉の外部に存在する、人民蜂起のロマンチシズムを説いたと言える。

 『ユートピアの冒険』を読み終わった段階で、僕は笠井の主張に完全に納得していた。電撃的に到来する人民蜂起を肯定し、その瞬間を待ち望む。これ以外、一体何が言えるというのだろうか。

 

 しかし、スガ秀美『1968年』は、そんなロマンチシズムと真っ向から対立する、冷酷な現実を突きつける。笠井が、批評的言葉の外部として肯定するであろう、全共闘の反乱は、その実、ネオリベラリズムに回収されたのである。僕はこの、『ユートピアの冒険』→『1968年』という順番に、外山さんの、“革命家”としての明確な意図を感じた。

 確かに、反乱のロマンチシズムは文化として美しい。しかし、本当の意味で現実に政治的たらんとするならば、反乱というものは徹底的に批評されなければならない。笠井が小説家的態度だとすれば、スガ秀美は、徹底的に批評家的態度を取るのだ。

 ロマンチシズムに終わることなく、現実の政治において勝利することの必要性。これは、真に“革命家”であるならば、絶対に説かなければならないことであろう。だからこそ、外山さんが、『1968年』→『ユートピアの冒険』ではなく、『ユートピアの冒険』→『1968年』という順番にしたことは、大いに意味があると思う。

 しかし、正直僕は、ロマンチシズムと現実性との矛盾を、自分の中ではまだ全く解決できていない。今後、自分なりに考えて行こうと思う。

 

 

 ②合宿全体の雰囲気について

 教養強化合宿の基本は“九時五時”の講義である。当たり前だが、講義はずっと真面目な雰囲気で行われるので、雰囲気を記述するまでもないだろう。

 

 講義の時間外は、基本的には何をしてもいいことになっている。食事は、我々団の団員の山本桜子さんが作ってくださるし、消灯時間は特に決まっていないが、その場でいつでも寝れることになっていた。講義の息抜きにケータイをいじったり、合宿参加者同士で真面目に話し合ったり、或いは気楽に話し合ったり、外山さんに講義についての質問を続けたり、早めに就寝したり、外山邸にある映画を鑑賞したりと、参加者によって色々な過ごし方をしていた。僕は、外山さんの話を聞くか、合宿参加者と話し合っていることが多かった。

 合宿には、政治/思想/文化について、様々な知識、関心を持つ、非常に個性的で面白い学生が集まっていた。例えば、名古屋アナキズム研究会の活動で逮捕歴を持つバリバリの活動家、自称革命的山本太郎主義者、多くの映像を制作している映画系の学生、ミスコンを破壊したい学生、議員のボランティア秘書等等,,,,,。僕が何の団体にも属さない半分引きこもりなことはあるが、外山合宿程、個性的かつ知的な若者が集まる場所を自分は思いつかない。参加者の話を聞いて、頭が下がる思いでいっぱいだった。

 参加する前は、良くも悪くも、外山恒一からの影響を強すぎるほどに受けている人しか集まらないだろうと思っていたが、蓋を開けるとそんなことはなかった。「反ポリコレ/反フェミニズム」を掲げている外山さんだが、ポリコレ/フェミニズム派を自任する学生も多く居たし、多数は、非常に幅広い人文系の知識を持った正統派インテリだった(寧ろ自分が、外山さんの活動には詳しいがそれ以外は何も知らない、“外山恒一主義者”というキャラになってしまった……)。

 参加者の皆が自分の様に、外山さんの強い影響下にあったら、互いに話し合っても、外山さんへの信仰告白に終始していたかもしれない。しかし、皆、人文系のことに強い関心を持つという共通点はありつつも、それぞれ異なった主張、関心を持つ学生が集まったおかげで、議論にも熱が入ったという側面は大いにあると思う。

 参加者との議論は非常に白熱した。話していた時間が長すぎて、細かく何を話したのかは正直よく覚えていないが、講義で出てきた内容に即した話が多かった。それ以外にも、環境管理型権力共産主義現代思想現代日本政治、或いは天皇制について話し合っていた(ような気がする)。ポリコレ的な議論をしている人もいたし、自分は文化的な教養がないので参加できなかったが、映画、小説からアニメーションまで、文化の議論をしている人もいた。僕個人は講義と風呂と睡眠以外の時間は、殆ど全て外山さんか参加者と話し合っており、ケータイをいじる時間はおろか、髭をそる時間もなかった。

 

 ③外山恒一について

 僕は、この合宿に来る前から外山さんの影響を強く受けていて、外山さんの活動をネット上でストーキングしていたが、この合宿でさらに強い影響を受けてしまった。以下、非常に強い偏りが出ると思う。

 第一に、知識量が凄すぎる。十日間、八時間ぶっ通しで左翼運動史、ポストモダンを語れるのが凄い。又、授業内容がやはりかなり難しいため、参加者の質問は、質問自体が何を質問しているのか不明瞭ということが多かった(自分も含めて)。それでも、質問者の意図を即座にくみ取って、何か考え込んだりわざわざ調べたりすることなく、すぐに答えをスラスラ言えるのである。インテリ、或いは論客と称される人を初めて生で見たから、非常に衝撃的だった。学者にありがちな“隠語”を使わずに、平易な言葉で説明しようとする姿勢には、在野で活動していくことの重要さも感じた。

 第二に、器が広すぎる。九泊十日の授業内容・経験は、どんな教育機関にも見劣りしないものだと思うが、それでも、衣食住が無料で保障されているのである。普通に考えて、社会常識もろくにわきまえていない、見ず知らずの二十歳前後の若者十数名が、自宅をうろうろ勝手に徘徊して冷蔵庫を漁ったりキッチンを使ったりしているのは(自分が見張っている時はおろか、自分が就寝している時も‼‼)、相当不快なはずだ。何をされるか分かったものではない。

 「活動には拠点が必要」ということは良く聞くが、外山さんは、「自宅を解放して拠点にする」という荒業でもって、最高の拠点を作り出しているのだ。外山さん自身がTwitterで仰る通り、まさしく“善行企画”であり、革命家からの無償の贈与を感じた。

 第三に、外山さんの活動の政治的ラジカリズムを、より強く感じた。外山恒一というと、後藤輝樹やマック赤坂と並べて、“政見放送芸人”として知られているが、外山さんの経歴は、れっきとした活動家である。

 多くのオモシロ主義が、脱力感に基づいたオモシロ主義だとすれば、外山恒一的なオモシロ主義は、政治的ラジカリズムの緊張感を伴っている。授業を受けていると、或いは話を聞いていると、そのオモシロ主義の背景にあるラジカル性が非常に強く感じられるのである。政治的緊張感とユーモアとを高度に両立させているからこそ、外山さんの活動はアート的な文脈でも評価されるのだと思った。

 

  ④まとめ

 長々と下手な文を書いたが、要約すると、「とにかくメッチャ良かった‼‼」ということである。

 繰り返す通り、自分の感想は、非常に「外山恒一」への偏りが強いものになっているが、それは寧ろ例外である。もっと偏りのない公正な人から見たら、違った感想が出るに違いない。

 しかしともかく、左翼運動史と、それに関連するポストモダン思想に異常に詳しく、異常に説明の上手い人が、無料で少人数に講義をしてくれるのだ。それに加えて、政治/思想/文化的な事柄に熱意を持っているという、今時珍しい学生との交流も出来るのだから、非常に良い経験であることは間違いない。

 とにかく素晴らしいので、左翼も右翼もノンポリも、ポリコレ派も反ポリコレ派も、哲学好きも文学好きも映画好きも、陽キャ陰キャも引きこもりも、全学生が一度は行ってみるべき合宿である。